20250330 日曜午後礼拝
聖書:マルコ14:3−9
題目:打算なき献身
説教者:高曜翰 副牧師
“イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。“よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。”
マルコによる福音書 14:3-9 口語訳
1。与える喜びvs受ける喜び
シカゴ大学のエド・オブライエンは2018年に、96名の大学生を対象に調査を行いました。1人当たり1日5ドルを5日間支給するのですが、自分のためにお金を使うグループと他人のためにお金を使うグループに分けました。調査の結果、初日は幸福度が両グループで同じ程度でしたが、5日目は明らかに、自分のためにお金を使ったグループの幸福度が下がっていました。一方で、他人のためにお金を使ったグループの幸福度は1日目と同程度でした。
また、502名の男女を対象に調査を行いました。オンラインのパズルゲームで、クリアするたびに0.05ドルもらえるというものです。もらったお金は自分のものにするか、寄付するか選べます。ゲームごとに感情の変化をチェックするのですが、寄付したグループの方の幸福感が長く続くという結果が得られました。
これらの結果より、与えられる幸せはすぐに慣れてしまうということ、「受けるもの」に集中すると、体験ではなく結果の比較をするようになり、幸福感を失うということ、逆に「与えるもの」に集中すると、体験自体に意識が向き、比較することなく、幸福感を得られる、ということが考えられました。「受ける」よりも「与える」方が幸福感が長く続くことがわかったのです。
2。マリヤの態度vsユダの態度
イエスは通常、ベタニヤのラザロの家で寝泊まりしていましたが、今回はらい病人シモンの家に招待されました。弟子たちだけでなく、ラザロたちも招待されているようです。シモンはこの地域でらい病患者として有名だったようですが、食事の用意をしているので、らい病の治療は済んでいるようです。ちなみに今日の出来事は水曜日ではなく、入城前の土曜日ですが、ユダの裏切りのきっかけになった事件なので、分かりやすくするために、水曜日の出来事に挿入されていると言われています。
イエスが食事の席についていると、マリアがアラバスタの壺を持ってきました。そこには高価で純粋なナルドの香油が入っていました。一年分の賃金に当たる約300万円の価値があるインドからの輸入品です。香りを閉じ込めるための壺は強固に密閉されており、割らないと使用できません。マリヤはその壺を割って、香油をイエスの頭に注ぎ、足にも塗って、自分の髪で拭きました。マリヤは自分の持っているもの全てを使った、イエスを埋葬するための準備をしたのです。ただの油ではありません。貴重なナルドの香油を用いたのは、イエスを真の王として認めているからです。どこまで深くかは分かりませんが、マリアはイエスが死ぬことを知っていたようです。
弟子たちは「なぜこんな無駄なことをするのか。貧しい人々に施すことができたのに。」と冷たい態度をとりました。確かに合理的な意見かも知れませんが、イエスが死ぬことをわかっていない様子です。また、普段の弟子たちの様子から考えると、本当に貧しい人々のことを考えての発言とは思えません。本心は、そんなことをするくらいなら自分たちにくれたらいいのに、という考えだったかも知れません。財政担当でありながら日常的にお金を誤魔化していたユダは、自分の懐に大金が手に入る機会を失ったことで特に怒っていたようです。とにかく弟子たちはマリアを厳しく非難しました。マリアは大勢の男性から厳しく批判され、自分が悪いことをしたのではないかと、大きく戸惑いました。
そこでイエスは「そのままにさせておきなさい。困らせてはいけない。彼女は良いことをした」とマリアを擁護し、安心させました。そして「貧しい人たちはいつもあなたと一緒にいるが、私はそうではない」と言いました。貧しい人たちには後で施しできるが、私に対しては今しか時間がないという意味です。「マリヤはできる限りのことをして、葬儀の準備をしたのだ」と言いました。イエスは、マリヤが打算的でない献身を見せたことを賞賛しているのです。「世界中でこの女のしたことが記念として語られる」と言いました。マリアの注意深く計算するのではなく、喜んで全力で捧げる姿のこと言っています。
この事件の後、ユダは1人でエルサレムにいる祭司長に会いに行きました。イエスが死ぬつもりであることを知り、これ以上イエスについて行ってもお金儲けができないと判断したからです。ユダはイエスを銀貨30枚で売ることにしました。これは死んでしまった奴隷一人分の値段です。ユダにとってイエスは、王ではなく奴隷以下の価値になったのです。祭司長達は、イエスを逮捕する絶好の機会を得ました。過越の祭りが行われ、イエスがエルサレムにいる時に秘密裏に捕まえたいと考えていましたが、逮捕が人目につけば暴動になる可能性が高いので、諦めかけていました。そこにユダがやってきたのです。祭司長達はイエスの逮捕を決定しました。彼らには、神聖な祭りを汚したくない、といった純粋な思いはすでに持っていませんでした。
3。適用
今日のお話からわかる1番大事なことは、神様が私たちに求めているのは、バランスの取れた判断ではなく、打算的でない献身だということです。
“各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。”
コリント人への第二の手紙 9:7 口語訳
ユダは計算してイエスについて行きました。金銭的な利益になるかどうかが基準でした。だから損失にしかならないようなことをするマリヤが許せなかったのです。一方で、マリヤは計算せずにイエスについて行きました。愛がある行動かどうかが基準でした。だからイエスのための犠牲を惜しまず、全力で愛してたのです。イエスはどうだったでしょうか?十字架への道も打算のない献身でした。イエスにとって神の愛が基準となっていました。だから神が愛する罪人のために死ぬという、割に合わない犠牲を払ったのです。罪を犯した悪人のために無実の善人が人間が代わりに死ぬというのは、どう考えても割に合わないことです。しかし、イエスは自分の身を捧げたのです。私たちはどのように神様に献身していますか?イエスは打算なき献身を喜ばれます。
次に、神様が私たちに求めているのは、目に見える物ではなく、目に見えない物に注ぐ心だということです。
“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。”
コリント人への第二の手紙 4:18 口語訳
ユダは目に見える利益を追い求めました。だから将来性の見えないイエスを捨てて、目に見えるお金を選択したのです。しかし、ユダはそのお金と一緒に滅びることになりました。一方で、マリヤは目に見えない愛を追い求めました。目に見える高価な香油を捨てて、最後を迎えるイエスを選択したのです。しかし、この選択は神様に喜ばれ、長く語り継がれることになったのです。イエスも同じでした。イエスは神の計画の中にある神の思いに目を注ぎました。だから人の求めるものに惑わされず、徹底的に神の計画に従うことができました。目に見えるローマからの独立でなく、目に見えない死からの解放のためにその生涯を全うしたのです。私たちは受験や就職、結婚など目に見える物に惑わされていませんか?目に見える物ではなく、目に見えない物に注ぐ心を神様は喜ばれます。
だから私たちは、受け取ることよりも、与えることを喜びましょう。
“わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。”
使徒行伝 20:35 口語訳
ユダは自分がいくら受け取ることができるかにこだわりました。目に見える物のために打算的に行動する人は、受けることに集中します。しかし、受けることで得られる喜びは長続きせず、さらに大きく受け取ることを求め、人を強欲にしてしまいます。一方で、マリヤはイエスにどれだけ与えることができるかにこだわりました。目に見えない物のために打算的でない献身をする人は、与えることに集中します。与えることで得られる喜びは長く続き、神様にも喜ばれます。与えることで幸せになることができるように神様が私たちをお作りになったのです。私たちは受ける人ではなく、与える人になりましょう。
4。まとめ
神様が喜ぶのは、打算なき献身であり、見えないものに注ぐ心です。私たちは与えることで祝福される存在になりましょう。
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