20250413 日曜午後礼拝
聖書:マルコ15:39
題目:百卒長は何を見たのか?
内容:百卒長は奇跡の力を見てイエスを信じたのではありません。悲惨な十字架の上で、神様への積極的な従順を見せるイエスを見て、「神の子」であると信仰告白しました。私たちも、鎖に繋がれた僕が見せる消極的な従順ではなく、鎖から解放された自由な僕が見せる積極的な従順を持って生きていきましょう。
説教者:高曜翰 副牧師
“イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。”
マルコによる福音書 15:39 口語訳
1。天邪鬼なカエル
小さい頃に聞いて泣いた昔話があります。あるところに母ガエルと息子ガエルが住んでいました。息子ガエルはいつも母ガエルの言いつけと反対のことをしていました。山に行けといえば、川に行き、川に行けといえば、山に行くような天邪鬼でした。息子ガエルのせいで疲れた母ガエルはとうとう病気になってしまいました。死期を悟った母ガエルは、息子ガエルに「私が死んだら川に埋めてくれ」と、望んでいることと反対の言葉を言い、亡くなりました。息子ガエルは、母ガエルの死によって、ようやく自分の愚かさに気づき、最後くらいは母ガエルの言葉通りにしようと考え、川に墓を作ったのです。そのせいで、雨が降るたびに、墓が流されないか川に確認しに行き、悲しくて泣き続けたそうです。
本来は親孝行を勧めるためのお話です。しかし、不従順だった息子ガエルが、母ガエルの死を通して従順に生まれ変わり、危険を顧みず積極的にお墓を守ろうとしている姿に、私は感動しました。積極的な従順は時に人の心に感動を与えます。
2。百卒長が見たものとは?
イエスの逮捕から十字架刑が始まるまで半日もかかりませんでした。木曜日の深夜、イエスはユダの裏切りによって逮捕されました。そして金曜日の夜明け前から、アンナス元大祭司の裁判と、カヤパ大祭司の裁判を受けて有罪となり、夜明けごろに、ピラトと面会した後、ヘロデと面会し、再びピラトの元で裁判を受け、ここでも有罪となりました。全てでっちあげの有罪判決ですが、これを受けてイエスは、金曜日の午前9時に十字架にはりつけにされたのです。十字架刑とは、国家反逆を企んだ重罪人に課せられる、最も大きく最も長く苦痛を与える残酷な刑罰です。イエスは2人の重罪人と並んで十字架につけられました。そして、祭司長や律法学者、長老だけでなく、その重罪人や通りすがりの人々からも罵られました。イエスは最後に、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と言って、午後3時に息を引き取りました。通常、死亡するまで1−2日かかりますが、イエスはわずか6時間で死亡したのでした。そんな悲惨なイエスの姿を見て、異邦人であるローマの百卒長は「まことにこの人は神の子であった」とイエスを神の子として信じる信仰告白をしたのです。なぜ、彼はイエスを神の子として受け入れることができたのでしょうか?彼は何を見たのでしょうか?
要点は、イエスの息の引き取り方です。
“イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。”
マタイによる福音書 27:50-54 口語訳
マタイは百卒長が見たものについて詳細に記述しています。マタイによれば、「百卒長とその部下たちが地震や色々な出来事を見て非常に恐れ、『まことに、この人は神の子であった』と告白した」となっています。そして「いろいろな出来事」とは、⑴神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けたこと、⑵地震で岩が裂けたこと、⑶地震で墓が開き、多くの聖徒たちの死体が生き返ったこと、⑷イエスの復活後、墓から出てきてエルサレムに入ってきたこと、以上の4つです。どれも日常ではありえないようなことなので、百卒長がこれらを見て信じたと言っても十分な根拠になりそうです。しかし、マルコもルカも、これらの描写をしていません。つまり⑴〜⑷が百卒長が信じた根拠の一部にはなっても、要点ではないと言えます。では百卒長は他に何を見たのでしょうか?今日の本文(マルコ15:39)に戻ってみると、「このようにして息をひきとられたのを見て…」とあるので、イエスの最後の姿が要点になっていると考えられます。ギリシャ語の原文を見てみると、「最後の息を吐き出す方法を見て…」となっています。つまり、どのようにしてイエスが「息を引き取った」かが重要になります。
そして、重要なのはイエスが「自分から霊を送り出した」ことです。
“イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。”
マタイによる福音書 27:50 口語訳
“イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。”
マルコによる福音書 15:37 口語訳
“そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。”
ルカによる福音書 23:46 口語訳
“すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。”
ヨハネによる福音書 19:30 口語訳
それぞれの福音書におけるイエスの最後を見てみると、「息を引き取った」で共通しています。しかしギリシャ語の原本では微妙な違いがあります。マタイは「霊を送り出した」、マルコとルカは「最後の息を吐き出した(送り出した)」、ヨハネは「霊を自分から他の者の手に渡した」です。ヘブル語では息と霊が同じ単語である文化的背景と、「死ぬ」や「取られる」という単語を意図的に使っていないことを考慮すると、イエスは命が取られる時を怯えながら待ったのではないことがわかります。イエスは自ら自分の霊を神様に送り出し、寿命を迎えたのです。ルカはその事実を強調するために、「父よ、私の霊を御手に委ねます」とイエスの最後の一言を記述しています。つまり、百卒長は単にイエスの最後の姿を見たのではなく、自ら霊を送り出す姿を見たというわけです。
つまり、百卒長はイエスの積極的な従順を見て信じたのです。
“百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。”
マタイによる福音書 27:54 口語訳
“イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。”
マルコによる福音書 15:39 口語訳
“百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。”
ルカによる福音書 23:47 口語訳
百卒長のイエスに対する評価を、マタイとマルコは「神の子」としています。子が父に任せるように、自分の命を神様に委ねる姿勢を見たからです。一方で、ルカは「正しい人」と記述しています。ディカイアスという形容詞を使用していますが、これは「無垢な」、「無罪の」という意味です。それは社会的にではなく、霊的に「神の意思に完全に合致し、人生において修正が必要のない」という意味です。多くの死刑囚を見てきたであろう百卒長は、死に際に、死にたくないと泣け叫んだり、人や神を呪ったりする姿を見てきたことでしょう。しかし、イエスは助けを求めたり、不満を言ったりしませんでした。むしろ、わざと大声を出して自ら寿命を迎えました。悲惨な状況でも、神様を父と呼び、自分の命を神様に預けたのです。死に至るまで、積極的に神様に従順な姿を見て百卒長は信じたのです。100人の軍を束ねる隊長として、最後の最後まで積極的に従順に戦う兵士の姿をイエスに重ね合わせたのかもしれません。
3。積極的な従順を学ぼう
百卒長がイエスに見たのは「積極的な従順」です。
“だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。”
ヨハネによる福音書 10:18 口語訳
イエスは、十字架に「かけられて」誰かに「殺された」のではありません。自分から十字架に「かかって」「死んだ」のです。ここには大きな違いがあります。消極的な従順ではなく、積極的な従順だったのです。イエスは人に仕える「しもべ」として地上に来ました。しかし、鎖で繋がれて、無理矢理働かされる「しもべ」ではありませんでした。自由が与えられ、進んで働くことのできる「しもべ」です。イエスは与えられた自由の中で、十字架にかかって死ぬ道を選んだのです。それは私たちも同じです。私たちは神の計画の中で、否応なしに強制的に働かされる「しもべ」ではありません。鎖から解放されて、自分の意思で主人のために働くことのできる「しもべ」です。その姿は、愛する女性のために戦う騎士のようです。嫌々女性を守るのではありません。使命を喜び、自ら進んで女性を守るのです。またその姿は、子供を愛する母親のようです。嫌々お弁当を作るのではありません。喧嘩して気分が悪いとしても、母親として、子供のお弁当を作るのです。
4。どんな「しもべ」になるべきか?
イエスのように積極的に従う「しもべ」になりましょう。私たちは「礼拝しなければならない」「祈らなければならない」「聖書を読まなければならない」と言います。しかし、それは恐怖などの感情による「消極的な従順」によるではありません。使命感のある信仰に基づいた「積極的な従順」から来るものです。私たちが「積極的な従順」で信仰生活をする時、百卒長のように、私たちを見て救いに預かる人々が現れることを忘れないでください。
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