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死に勝利したイエス(マルコ16:6−8)
고요한 2025-04-19 추천 0 댓글 0 조회 28

20250420日曜午後礼拝

聖書:マルコ16:6−8

題目:死に勝利したイエス

内容:沈黙した女性たちは、私たちが肉体的だけでなく精神的にも「死」に支配されているという事実を伝えています。また、空っぽのお墓は、イエスキリストが「死」に勝利した事実を伝えています。復活したイエスと出会い、その証人として生きることができるのなら、私たちも「死」の支配から解放された存在であることを意味します。

説教者:高曜翰 副牧師

“するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。 今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。”

‭‭マルコによる福音書‬ ‭16‬:‭6‬-‭8‬ 口語訳‬

1。イエスの遺体について

 イエスの遺体をどうするのか、三者三様の思惑がありました。祭司長達は一刻も早く、遺体を十字架から下ろして、エルサレムの外に出したいと考えました。なぜなら午後6時から安息日が始まるからです。午後3時にイエスが息を引き取ったので、残り3時間しかありません。遺体が十字架にかかったまま日が沈むと律法違反になります。また一年で一番大切な過越の安息日を汚すことにもなります。一刻も早く、エルサレムの外にある犯罪者用の墓穴に投げ捨てるか、ヒンノムの谷にあるゴミ焼却場に投げ捨てたかったのではないかと考えられます。

 一方で、ピラトはローマ帝国の面子を保つ必要がありました。十字架刑は見せしめのため、遺体を放置して鳥や獣に食べさせるまでがセットです。またローマの法では、十字架にかけた重罪人を、息があるうちに下ろすことはできません。十字架刑は数日かけて窒息させて死亡させる方法ですが、まだ6時間しか経っていません。他の2名もまだ生きています。イエスの生きている可能性があるかぎり、下ろせないのです。

 また、イエスについてきた女性達は、遺体を丁寧に埋葬したいと考えていたことでしょう。通常ユダヤの習慣では、まず遺体を水洗浄し、香料や香油を塗ります。そして亜麻布で包んで、墓の中に入れるのです。しかし、安息日の開始まで3時間しかなく、重罪人の遺体を引き取るのも容易ではありません。下手に引き取り依頼を出せば、判決への不服と捉えられ、ユダヤ人にもローマ人にも目をつけられる恐れがあります。

2。イエスの埋葬

 まず、祭司長達が動きます。死刑囚たちの足を折ることを提案し、ピラトは受け入れました。足を折ると、体重を支えられなくなり、すぐに窒息して死亡させることができます。まず、ローマ兵が息のある2人の足を折ります。そしてイエスの足を折ろうと近づきましたが、すでに亡くなっていることが確認できたので折りませんでした。念の為に槍で脇腹を刺し、血と水が流れ出たの見て、死亡確認完了としました。

 次に、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取ることを提案し、ピラトは受け入れました。同じサンヘドリンのメンバーであったニコデモと一緒に、香料を入れた亜麻布でイエスの遺体を包んで、近くの新しい墓穴に埋葬しました。今後の議員生命に関わる危険な行動でしたが、彼らは勇気を出して実行しました。

 一方で、女性達はそのお墓の前でイエスの体が納められるのを見ることしかできませんでした。見届けた後、香料と香油の用意をするために帰りました。後で時間をかけて埋葬し直すためです。

 安息日当日、祭司長達はわざわざやってきて、3日目まで墓の番をすることを提案し、ピラトは受け入れました。3日目に蘇るというイエスの言葉を思い出し、弟子たちが遺体を盗みにくる可能性を考えたからです。

3。イエスの復活

 安息日の翌日、女性たちは埋葬し直すためにイエスの墓に向かいました。到着すると、墓石が開いていて、中に白い服の天使が座っていました。「イエスは蘇って、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所です」と言いました。アリマタヤのヨセフ達が寝かせた場所を指して、神様が起き上がらせたことを説明しています。

 さらに、「今から弟子達とペテロの所に行って伝えなさい。イエスが先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」と言いました。勇敢に遺体を引き取り埋葬したアリマタヤのヨセフやニコデモではなく、裏切って逃げた弟子達とペテロに会うのです。もちろん裁くためではなく、和解するためです。かつてイエスはゲッセマネに行く途中、「よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤに行く」(マルコ14:28)と伝えていました。ガリラヤはイエスの主な活動拠点でした。つまり、イエスと弟子の伝道活動は、イエスの死で終わったのではなく、まだ続いているのです。

 しかし、ここで「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」とマルコは書いています。最初の「恐れ」はギリシャ語で、「正常な精神状態から放り出されている」ことを意味します。つまり気が動転しているのです。イエスの死を受け入れるために埋葬に行ったのに、よみがえったと言われ、イエスの死がなかったことのようになっているからです。本来なら、天使の言葉をすぐに弟子達に伝えるべきですが、怖くなって従うことができませんでした。

 マルコの書いた物語はここで終わっています。9−20節は、最も古い写本にないことや、文体が異なっていることから、後世で加筆されたものだと考えられています。16章が中途半端に終わっているのは、元々なかったのか、失われてしまったからなのかは不明です。

今回は16章8節までの御言葉でお話ししています。

4。「死」に勝利したイエス

 今日の本文から、私たちは体だけでなく、考え方も「死」に支配されていることが分かります。

“死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。”

‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭2‬:‭15‬ 口語訳‬

 私たちは生きている間も「死」に支配されている奴隷だと言っています。「死んだら終わり」という考えが私たちを支配しているのです。埋葬しに行った女性達の気が動転して、逃げ出して沈黙したのは、その考えに支配されているからです。それは祭司長やピラトたちも同じです。復活する可能性を考えることができず、どのように遺体を処理するか、どのように遺体が盗まれないようにするかしか考えられないのです。当たり前のように「復活する」という発想が出てこないのは、「死んだら終わり」という考えが私たちを支配しているからなのです。

 似たようなことは以前にもありました。ラザロの事件です。イエスはラザロを生き返らせるために来ましたが、マルタとマリヤは「主よ、あなたがここにいたらラザロは死ななかったでしょう」と言い、人々も「盲人の目を開けたこの人でも、ラザロを死なないようにできなかったのか」と言いました(ヨハネ11:21, 32, 37)。誰もイエスがラザロを蘇らせるとは考えられなかったのです。昔も今も、私たちは「死んだら終わり」という考えに支配され続けているのです。

 だから、天使は「死」の支配から私たちを解放するために、空っぽになったお墓を見せたのです。

“最後の敵として滅ぼされるのが、死である。”

‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭15‬:‭26‬ 口語訳‬

 イエスの最後の敵は、悪魔でも罪でもありません。「死」です。天使が、わざわざ石を開け、空っぽの墓を見せたのは、死の支配に打ち勝った証拠を見せるためです。人は、悪魔によって罪が入り込み、「死」ぬようになりました。イエスこれまで、悪魔を追い出す姿を見せ、十字架によって罪を清める姿を見せました。そして、最後に自身が復活し、お墓を空っぽにすることで、「死」に対する勝利を見せる必要があったのです。

 ラザロが死んだ時、イエスは泣いている人々を見て「激しく感動した」とあります(ヨハネ11:33)。ギリシャ語では ἐμβριμάομαι(エムブリマロマイ)という単語ですが、これは激しく怒って霊がうめく、尋常じゃない怒りを指しています。イエスは何に対して怒っているのでしょうか?それは、「死んだら終わり」という考えで人を縛る「死」に対してです。「死んだら終わり」という考えで人々を支配する「死」が許せないのです。イエスがラザロを生き返らせたのは、「死んだら終わり」ではないことを人々に見せ、自身が「死」の支配から解放するメシアであることを伝えるためでした。「復活」は「死」の支配からの解放を意味するのです。

 そして、「死」の支配から解放された私達は「復活」を伝える使命があります。

“それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。”

‭‭マタイによる福音書‬ ‭28‬:‭19‬-‭20‬ 口語訳‬

 「死」の支配から解放された者には、「復活」を伝える使命が与えられます。それは、まだ「死」の支配に縛られている人々をイエスキリストの名によって解放するためです。イエスの「復活」を信じるというのは、悪魔や罪だけでなく「死」にすらも勝利するイエスを信じるということであり、「死んだら終わり」という「死」の支配から解放されたことを意味します。イエスのお墓に行った女性たちは驚きのあまり沈黙してしまいましたが、それは復活を受け入れることができなかったからです。当たり前の反応といえばそうですが、それはイエスの望む姿ではありません。

 ラザロが生き返った時は、目撃者たちがイエスを信じただけでなく、証しをしたため、多くの人々がイエスを見るためにエルサレムに押し寄せました(ヨハネ12:17−18)。イエスは自分の力を自慢するために、復活を見せたのではありません。イエスを通して、「死」の支配から解放されることを多くの人々に伝えるためです。つまり、ラザロの復活を通して、「死」の支配から解放された人々が、イエスキリストの証人として働いたのです。 

 例えば、試写会をしたのに、参加者たちが沈黙してしまったらどうでしょうか?試写会の意味がなくなってしまいます。試写会を開いたのは、宣伝してもらうためです。私たちキリスト者も同じです。イエスキリストの復活を私たちが目撃したのは、私たちが偉いからではなく、人々に伝えるためです。皆さんは復活を信じますか?「死んだら終わり」という「死」の支配から解放されていますか?もしそうなら、私たちには復活を伝える使命があるのです。まずは、「死」の支配から解放された事実を受け入れて喜んでください。そして、まだ「死」の支配に縛られている人々に「復活」を喜んで伝えましょう。それが「死」に勝利したイエスが私たちに望んでいることです。 

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