20250622日曜午前礼拝
聖書:ルカ1:28−38
題目:マリヤの得た平安
讃美:86、406、407
説教者:高曜翰 牧師
“御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。 神には、なんでもできないことはありません」。 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。”
ルカによる福音書 1:28-38 口語訳
去年はザカリヤを通して奉仕する者の心構えを説明した。
1.平安を与えるものは?
「平安の中で静かに暮らしたい」と願うのは、多くの人に共通する思いです。しかし、この世界で本当の平安を得るのは容易ではありません。多くの人が平安を求めて努力し、争い、傷つき、失敗してきました。どんなに気をつけていても、平安は突然奪われます。問題がなくなれば平安が得られると考えがちですが、実際には一つの問題が解決しても次の問題が現れます。では聖書は、どのようにして私たちが真の平安を得られると教えているのでしょうか?
2.マリヤに起こった出来事
マリヤはナザレという小さな村に住む、ごく普通の、しかし信仰深い若い女性でした。婚約者ヨセフとの結婚を待つ中、天使ガブリエルが現れ、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」と語りかけました。続けて「あなたは男の子を身ごもり、その名をイエスと名づけなさい」と告げられます。マリヤは当然驚き、「私は男を知りませんのに、どうしてそんなことがあり得ましょうか」と問いかけます。しかし天使は「聖霊によって生まれる。神にできないことは何一つない」と答えます。マリヤはこの信じ難い言葉に対して、「私は主のしもべです。みことばどおり、この身になりますように」と応じます。婚約中に妊娠することは社会的にも命の危険を伴うものでしたが、マリヤは神を信じる信仰によって応答し、不安の中に平安を得たのです。
3.ザカリヤに起こった出来事
一方、ザカリヤはアロンの家系に連なる祭司で、妻エリサベツと共に長年神に仕えてきた人でした。子どもに恵まれず高齢を迎えた中、神殿で香を焚くという一生に一度の奉仕中に天使ガブリエルが現れ、「あなたの祈りが聞き入れられた。エリサベツは男の子を産む」と告げます。しかし、ザカリヤは「私は老人で、妻も年老いています。どうしてそんなことがあり得ましょうか」と答え、信じませんでした。子供を授かることはザカリヤ夫妻にとって長年望んでいたことだったにもかかわらず、非常識とも思われる言葉に対して、不信仰で応答してしまいました。その結果、ガブリエルに「私は神の前に立つガブリエルです。私の言葉を信じなかったから、子が生まれるまで口が利けなくなります」と言われ、罰を受けました。やがて子が誕生したとき、初めて口が開かれ、神を賛美しました。
4.マリヤとザカリヤの比較
マリヤとザカリヤの反応は対照的です。どちらも突然の神の言葉に戸惑いましたが、マリヤは自分を降ろして、理解できなくても信頼し、受け入れました。ザカリヤは自分を表し、現実にとらわれ、不信によって口を閉ざされました。マリヤは、妊娠が発覚すれば、ヨセフから結婚を解消されたり、人々に捕えられ、石打ちの刑を受ける危険がありました。しかし、彼女は自ら外に出て、親戚のエリサベツを訪ねて励まし合いました。なぜこんな危険なことができたのでしょうか?彼女に問題がなかったのではなく、神への信頼によって平安が与えられていたのです。マリヤのように「自分を殺し」、神に信頼する信仰こそが、揺るがない平安をもたらします。
5.ゲッセマネのイエス
十字架の道へ行く前、イエスも母マリヤのように祈りました。「父よ、みこころならば、どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりに、なさってください」(ルカ22:42)と。十字架の道は、ただ死ぬだけではなく、精神的にも肉体的にも激しい苦痛を受ける道です。しかし、祈りを通してマリヤのように「自分を殺し」、神に信頼したからこそ、十字架の道に向かう平安を手に入れることができました。その証拠に、裏切り、捕縛、裁判、鞭打ち、十字架を受けても、イエスには一切のためらいや動揺が見られませんでした。人を憎むどころか「父よ、彼らをお赦しください」と祈ったほどでした(ルカ23:34)。大切なのは苦しみが消えたからではなく、神に信頼したからこそ、十字架を全うすることのできる平安を得たのです。
6.この世と仏教と聖書の平安の違い
「信じる者は馬鹿を見る」と言われるように、この世では信じることが弱さや愚かさと見なされることがあります。そのため、多くの人は人間関係でも疑い深くなり、証拠や実績を求めるようになります。科学の分野ではその姿勢は有効ですが、それを人間関係や信仰にまで持ち込むと、信頼が崩れ、平安は得られません。人は本質的に、信じ合う関係の中にこそ安らぎを見いだします。
一方で、仏教における「平安」は、悟りや無我の境地を通して感情や執着から離れることで得られるものです。しかしそれは、自己を無にし、感情を殺し、外界から遮断された「死んだ静けさ」に近いものであり、最終的には自己の修行によって到達すべきものです。それは非常に困難で、到達しても保証されたものではありません。
しかし、聖書が語る平安はまったく異なります。それは、人格を持つ神との関係に基づいた「生きた平安」です。自分の努力によって得るものではなく、信仰によって与えられる贈り物です。自分を殺すとは、自分の考えや理解を優先することをやめ、神を信頼して従うことです。そうする時、神は確かに応えてくださり、揺るがない平安を与えてくださいます。
イエス・キリストはこう語りました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしが与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネによる福音書14章27節)この平安は、問題のない状態ではなく、問題の中にあっても心が揺るがされない平安です。神の御手の中にあるという信頼に基づくからです。
7.結び:マリヤのように平安を得るには
マリヤが得た平安は、すべてが理解できたからでも、問題がなかったからでもありません。むしろ彼女の人生には困難とリスクがありました。しかし、それでも彼女は「主のしもべです」と自らを神にゆだねました。そこに、神から来る平安が与えられたのです。
一方で、ザカリヤは状況を見て不信を抱き、しばらく沈黙せざるを得ませんでした。しかしその沈黙の期間に、彼も神と向き合い、やがて信仰によって口を開き、賛美をささげました。
私たちも日々の生活の中で、不安や理解できない状況に直面します。そんな時こそ、自分の理解や感情を優先するのではなく、マリヤのように神を信頼し、神の言葉に応答する者でありたいと思います。
この世が与える平安は一時的で条件付きです。仏教が求める平安は自己努力にかかっています。しかし、聖書が語る平安は、キリストによって確かに与えられる約束です。だからこそ、私たちはこの方に信頼し、真の平安を受け取ることができるようにしましょう。
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