20250706日曜午後礼拝
聖書:ルカ5:4−11
題目:理解できなくても従う信仰
讃美:320、321
説教者:高曜翰 牧師
“話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。”
ルカによる福音書 5:4-11 口語訳
1。ナイチンゲール
フローレンス・ナイチンゲール(1820–1910)はイギリスの上流階級に生まれた女性でした。17歳の時、神様の声を聞いて召命を受けました。しかし、当時は何をすべきか全く分かりませんでした。日記には「神が何を望んでおられるのか、私は分からなかった。ただ、私は従いました」と書いてあります。当時の上流階級の女性として、家族からは社交界での結婚や家庭生活を期待されていましたが、彼女は「神が与えた使命とは何か」を問い続け、次第に看護という職業に惹かれていきました。看護は当時身分の低い者のする仕事とされており、家族からは大反対されました。31歳の時、プロテスタント系の看護学校に短期留学し、本格的に看護の訓練を受けました。
そして34歳の時、クリミア戦争に従事し、過酷な環境下で看護の仕事をしました。彼女は2つのことを実施しました。1つは心からの献身です。身分を問わず、泥まみれの兵士の足を洗い、嘔吐物を片付け、手紙を書いてあげるなど愛と配慮に満ちた行動をとりました。夜中にもランプを手に夜通し兵士たちを見回り、励まし、手当てをしました。兵士たちは彼女の姿に「天使のようだ」と感動しました。彼女は魂のケアに重きを置いたのです。
そしてもう一つは、病院の衛生改革です。汚れたリネン・衣類の洗濯、換気の徹底、汚水の排除と清掃、清潔な食事の提供、トイレの整備、感染症患者の隔離を行いました。その結果、数ヶ月で病院での死亡率を60%から2%未満に減少させました。彼女は独学で統計を学び、死亡率の原因を数値で分析していたのです。彼女の分析によれば、死亡原因の大半が負傷ではなく、感染症によるものだと突き止めたのです。
彼女のは目に見えない細菌や衛生概念がまだ広まっていなかった時代に、祈りと科学を持って命を救う道を切り開いたのです。それだけではなく、クリミア戦争での働きを通じで看護の地位を向上させ、現代看護の礎を築きました。彼女は20代を華やかに過ごすのではなく、神様が用いる時を準備して待つ事を選びました。 彼女は「神の召しに従うことは、周囲の理解を得ることより大事だった」と話しています。彼女には理解できなくても従う信仰があったのです。
2。シモン・ペテロ
シモンと漁師たちは夜通しで漁をしましたが、1匹も魚を撮る事ができませんでした。そこに現れたのは漁の専門家でもない大工のイエスです。そして「沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と命じました。シモンは「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と反論します。シモンはイエスを「先生」と呼び、偉大な教師であることを認めてはいましたが、シモン自身は職業漁師です。シモンは漁に最も適した時間帯は夜であり、朝や昼には獲れない事を知っていました。だから、専門家の意見としては、今網をおろしても意味がないのです。理性的には納得できない心情を表しています。
しかし、シモンはつぶやいた後すぐに「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と続けました。シモンの心の中には「意味はないが、愚かに見えるが、でも従ってみよう」という信仰の芽が生まれつつありました。自分の考えを降ろして、イエスに従ったところ、現実的には漁の時間帯ではないにも関わらず、船が沈みそうになるほどの大量の魚を捕まえました。これが「理解できなくても、受け入れて従おう」という信仰の結果です。
シモン・ペテロはこの結果を見て、イエスの足もとにひれ伏して「主よ、私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言いました。なぜ大量の魚に感動してイエスを賞賛するのではなく、自分を罪人だと言って恐れたのでしょうか?それはペテロが漁のプロであり、昼間にこれほどの魚が取れるわけがないということを誰よりもわかっていたからです。この魚の量は偶然でも人の努力でもなく、自然の法則を支配する「神の技」によるものだと直感で感じたからです。その証拠に、ペテロはイエスを「先生」とは呼ばず「主」と呼び方を変えています。「離れてください」と願うのは、旧約のイザヤ(イザヤ6:5)や、ギデオン(士師記6:22)と同じように、罪ある者が神の聖さを前にして感じる恐れです。
人は神の恵みが大きければ大きいほど、それを受ける自分の器の小ささや罪深さを思い知ります。しかしそれが重要なのです。感動よりも悔い改めに至る時、信仰が始まります。ペテロはこの「砕かれた瞬間」を経て、神に用いられる器と変えられていくのです。ペテロも、彼と一緒にいたゼベダイの子でシモンの仲間であるヤコブとヨハネも驚いていました。漁師としての経験や技術を超えた結果に、彼らは神の働きを認めざるを得なかったのです。
イエスはシモンに「恐れることはありません。これからのち、あなたは人間をとるようになります」と言いました。罪を認めた者を拒むのではなく、使命を与えるのが主です。 「人間をとる」とは、人の魂を神の国へと導く働きを指します。漁の技術が、今や魂の収穫に変わるということです。イエスは、ペテロの専門性(漁師)を否定するのではなく、召命の素材として用いられるのです。神は、あなたの過去や技術さえも、使命の道具としてくだいます。
シモンたちは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従いました。「すべてを捨てた」とは、仕事、安定、漁の成功を含む日常すべてです。ここからペテロたちの人生が一変します。魚をとる人生から、魂をとる人生に変わるのです。本当の弟子とは、ペテロたちのように代価を払ってでも主に従う決断をする人をいいます。
3。納得できなくても従うのが信仰
まず、私たちに必要なのは 「納得できなくても主の言葉に従う」信仰です。ペテロは「夜通し働いて何もとれなかった」と言いましたが、「おことばですから」と網を下ろしました(5:5)。神の言葉に従うことは、自分の経験・専門性・常識を超える信仰の行動です。 信仰とは「わかるから従う」ではなく、「従うからわかる」ことがあるのです。
イエスは次のように語っています。
“神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。”
ヨハネによる福音書 7:17 口語訳
言い換えれば、神の御心を行おうとする者が、イエスの教えが神から出たものか人から出たものか見分ける事ができる、という事です。知恵や理解力のある者が真実を見抜くのではありません。神の御心を理解できなくても従う者が、真実を見分けることできるのです。この世の論理と神の国の論理は違います。理解して納得できるから従うのではなく、従うことで理解が与えられるという逆転の論理なのです。
次に、大切なのは 「奇跡に驚いた後、自分の罪に気づく」心です。私たちは奇跡に目を奪われがちですが、ペテロはすぐに「自分の罪深さ」に気づきました。神の御業を見るとき、それは、私たちの悔い改めへの招きでもあります。単に私たちを感動させて喜ばせるために、奇跡があるのではないのです。
イエスは次のように語っています。
“あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。”
ルカによる福音書 13:3,5 口語訳
ガリラヤ人がピラトに殺された事件とシロアムの塔の崩落事故に対して、人々は「あの人たちは特別罪深かったから、そんな目に遭ったのだ」と考えていました。それに対して「あなた方も悔い改めなければ同じように滅びる」と非常に厳しい警告を繰り返しました。災いだけでなく、奇跡も同じです。これらは他人を非難したり、自分を称賛するために与えられたのではなく、自分の信仰と悔い改めを見直すために与えられた機会なのです。多くの人々はイエスの奇跡に感動して終わりました。しかしそれでは意味がありません。真に救われた人々は、奇跡を見て、罪を告白し、行動を起こした人々です。奇跡の目的は、神の聖さに触れて、自分の罪を知り、神に立ち返ることが目的なのです。
だから、私たちは 「主に従うために、何かを手放す」勇気を持ちましょう。ペテロたちは「すべてを捨てて」従いました。私たちも、時に手放さなければならないものがあるかもしれません。自分のプライド、自分の成功、あるいは安心感や常識にこだわっていませんか?それらは「従う信仰」を邪魔するものです。
イエスは次のように話しています。
“それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。”
ルカによる福音書 14:33 口語訳
それは単に物質を指しているのではなく、執着、自己中心、依存しているものを含みます。主に従うには、この世の握りしめている何かを手放す勇気が必要なのです。しかし、手放すことで不安になることはありません。なぜなら、手放すことでは私たちは、永遠の命を手にする事ができるからです。主に従う道は、失う道ではなく、本当の意味で「得る道」であることを覚えてください。
4。まとめ
この出来事を通して、主はペテロに新しい人生のビジョンを与えました。私たちも、主の言葉に信頼し、従うとき、驚くほどの実りと使命に導かれます。私たちも今日、主の「沖へこぎ出して網を下ろせ」という声に行動を持って従いましょう。
5。祈り
主よ、私たちの常識や経験に勝るあなたの御言葉に従う信仰を与えてください。ペテロのように、あなたの前にへりくだり、あなたの導きに従って人生を変えていただけますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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