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花婿を迎えるための備え(マタイ25:1−13)
고요한 2025-09-13 추천 0 댓글 0 조회 3

20250914日曜午前礼拝

聖書:マタイ25:1−13

題目:花婿を迎えるための備え

賛美:4、キリストの花嫁、516、520

説教:高曜翰 牧師

“そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。”

‭‭マタイによる福音書‬ ‭25‬:‭1‬-‭13‬ 口語訳‬

1。祈りの力

 1867年、チャールズ・スポルジョン牧師はロンドンの貧しい子供達のために、300ポンドを集めるべく、募金活動をしました。その結果、目標金額を達成し、心からの祈りを捧げていると、神様から「その300ポンドをジョージ・ミュラー牧師に渡しなさい」という啓示を受けました。最初は「自分の孤児院のために必要だ」と反発しましたが、神の導きに従い、翌日ブリストルにいるミュラーの孤児院を訪れ、300ポンドを手渡しました。そして、その経緯を伝えると、ミュラーは「ちょうどその金額を神に求めていた」と答えました。二人は不思議な神の摂理に感動しました。そしてスポルジョンはロンドンに帰る電車の中で、「自分は一生懸命募金活動をしているが、ミュラーは祈りだけで必要が満たされている。同じ苦労をするなら、祈りによって得たい」と決心しました。そして、事務所に戻ったスポルジョンがデスクの上を見てみると、300ポンドの寄付が届いており、神様が自分の信仰に応えてくださったことを実感しました。

 ミュラーは一切募金活動をせずに、祈りのみで、1万人の孤児を養育し、11万ポンドの献金を集めました。そんなミュラーを見てスポルジョンは「もし他の誰かと身体を交換できるとしたら、それはミュラーだ」と語ったそうです。祈りは、目に見えず、評価されにくく、即効性を感じにくいため、後回しにされがちですが、神様の働きを力強く体験できる手段なのではないでしょうか。

2。十人の乙女の譬え話

 ある一組の結婚式が行われようとしていました。古代のユダヤの習慣では、婚約期間が終わると、夜に花婿が花嫁を迎えにいきます。花嫁は花婿が迎えに来るのを乙女達と待ちます。乙女達は、花婿と花嫁が花婿の家に向かう道をあかりで照らす役割があります。この役割は未婚または婚約中の女性に限ります。そして花婿の家に到着すると、一緒に宴会に入って行き、結婚式に参加します。

 ここでは花嫁を世話する乙女達が十人出てきます。しかし、そのうちの五人は思慮が浅く、別の五人は思慮深いとあります。その違いは何でしょうか?十人とも同じ様にあかりを持つ乙女でしたが、思慮の浅い乙女達は、油を用意しておらず、思慮深い乙女達は油を用意していました。見た目は同じでも、目に見えないところで用意があるかどうかの違いがあったのです。その違いが大きな差を生む事になります。

 予定時間を過ぎても花婿が来ないので、十人の乙女達は眠ってしまいました。そして夜更けに、「さあ、花婿だ!」との声がしました。乙女達はそれぞれ自分のあかりを手に取り、出ていく準備をしました。ところが、思慮の浅い乙女達のあかりは弱くなって消えかかっているではありませんか。思慮の浅い乙女達は思慮深い乙女達に、油を分けてほしいとお願いしました。

 しかし、思慮深い乙女達は『分け合うことのできる量はありません。店に行って、お買い求めになる方が良いでしょう』と断りました。花婿と花嫁を送る道の途中であかりが消えたら大変だからです。そのため、思慮の浅い乙女達は油を急いで買いに行きました。そうしている間に、花婿と花嫁を送る時間が来てしまい、思慮深い乙女達だけで出発することになってしまいました。思慮の浅い乙女達がようやく戻って来ましたが、すでに思慮深い乙女達は花婿と花嫁達と一緒に宴会の部屋に入ってしまっていました。思慮の浅い乙女達が宴会の部屋に入れてもらうようにお願いしますが、「私はあなた方を知らない」と花婿に断られてしまいました。夜中に見ず知らずの人を招き入れて宴会を台無しにするわけにはいかないので当然です。それゆえ、油の準備ができていない乙女達は宴会に入る機会を失ってしまったのです。

 この物語では、花婿はキリスト、花嫁は教会、乙女達は私たち聖徒、結婚式はキリストの再臨、宴会は神の国を表しています。イエスは神の国について話し始め、だから目を覚ましていなさい、と締めくくっています。そして目を覚ましている事=油を用意する事だと教えています。そして油とは聖霊を意味します。つまり、神の国に入る者は常に聖霊に満たされていなさいという教えなのです。

2。譬え話が教えること

 それでは、この譬え話からわかる『聖霊に満たされるために知っておくべき事』とは何でしょうか?3つに分けて解説します。

 まず、外面的ではなく内面的な変化が大切だという事です。

“偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。”

‭‭マタイによる福音書‬ ‭23‬:‭25‬-‭26‬ 口語訳‬

イエスは立派な外見と尊敬を集めているパリサイ人を偽善者と非難しました。なぜなら彼らの外側は清く変化したように見えても、内側は汚いままだったからです。いくら神様を信じていると言っても、その内面に変化がなければ、それは間違った信仰かも知れません。イエスはまず内側を変えなさいと教えています。

 譬え話の十人の乙女達は皆、同じように『あかり』を持っており、外見の差はありませんでした。しかし、目に見えない『油』という部分で差があったのです。私たち人間は目に見える『あかり』の部分に非常に注目しますが、神の前で重要なのは目に見えない『油』の部分なのです。

 だからもし、自身の行動基準が人の視線や人の評判から来ていたり、人間関係において自分が変わることよりも相手が変わる事を望んでいるのなら、悔い改めましょう。神様は私たちの環境ではなく、私達自身が変わる事を望んでいるからです。一つ目として重要なのは、外面的な変化ではなく内面的な変化だという事です。

 次に、困難ではなく備えが大切だという事です。

“これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。”

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭16‬:‭33‬ 口語訳‬

イエスは、この世には悩みがあることを前提として話をしています。困難や試練を避けて通りなさいとは教えていません。むしろその中で、勇気を出しなさいと教えています。私達はいくら神様を信じていると言っても、いつも何かに怯えて平安がないというのなら、その信仰に問題があるのかも知れません。

 譬え話の十人の乙女達は皆、同じように、花婿の遅れと居眠りを経験しました。しかし、準備していた『油』という部分で差が出ました。人々は試練の大きさに注目しますが、結果に差が出るのは試練ではなく、準備の部分なのです。

 だからもし、人や状況のせいにして自分を正当化ばかりしているのなら、悔い改めましょう。花婿の遅れには、私達がわからなくても正当な理由があり、花婿を責めることはできません。また、油を分けなかった乙女達を責めることもできません。なぜなら油を分け与える行為は、大勢の人々が長い間準備してきた結婚式を破壊する行為になるからです。招待を受けた側の都合でなくなる結婚式などあり得ません。遅れと眠りの中で信仰が試されるという事実が確かにあります。二つ目として重要なのは、困難が起こるかどうかではなく、備えをしているかどうかだということです。

 そのため、自分の力ではなく、祈りで備えましょう。

“これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。”

‭‭ルカによる福音書‬ ‭21‬:‭36‬ 口語訳‬

イエスは「目を覚まして祈っていなさい」と言いました。一見、「目を覚ますこと」と「祈ること」の二つを教えているように見えますが、原文で見ると少々意味合いが違っています。正確には「祈ることで目を覚ましていなさい」と書かれてあり、目を覚ます具体的な方法として祈りを教えていることがわかります。つまり、祈りで求める者に対して神様は聖霊を与えるということです。

 もちろん聖霊に満たされるのは、御言葉を読んだり、奉仕したり、賛美したりする中でも起こります。それは、私たちではなく神様の主権の中での話になりますが。しかし聖書は、聖霊に満たされるための条件として、祈りの重要性を説いています。実際、イエスが天に帰った後、弟子達は祈ることに専念し、聖霊が与えられるペンテコステを迎えました(使徒の働き1−2章)。聖書の朗読や賛美や奉仕ではなく、祈りが聖霊降臨の前提条件になっていたのです。

 それにもかかわらず、聖霊降臨節で祈りの重要性が強調されている一方で、一番見落とされやすいものになっているのが事実ではないでしょうか。なぜなら、他のものは違い、祈りは目に見えず、評価されにくく、即効性を感じにくいため、忙しさで後回しになり、形式的になりやすいからです。しかし、イエスは祈り求め続けることで聖霊が与えられる事を教えています(ルカ11:13)。そのため、私達が聖霊に満たされる事を望むのならば、他の方法よりも、まず祈りを通して求めることが大切なのです。

3。まとめ 

 今日は花嫁の世話をする乙女達が中心人物となりましたが、私達キリストの花嫁も同じです。花婿なるキリストが来るのを、聖霊を求め、聖霊に従うことで備えようではありませんか。外面的な部分を気にして人の知恵でどうにかしようとする信仰生活ではなく、内面が聖霊によって変えられていく信仰生活を祈りを通して求めましょう。 

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