20251019日曜韓国語礼拝
聖書:ヘブル10:25
題目:教会は礼拝の共同体
賛美:526、531
“ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。”
ヘブル人への手紙 10:25 口語訳
1。なぜ公同礼拝をするのか?
これまで教会についてお話ししてきました。私たちの信仰告白の上にキリストが建てるのが教会であり、キリストの体である教会は御言葉によって成長するということ、愛し合い真理に生きるのが教会の姿であるという事です。そして宣教が教会に与えられた使命であり、目的はイエスの弟子を作ることにあることをお伝えしました。宣教のために、お互いを励まし合うために教会に集まることは理解できたかと思います。ではなぜ集まって礼拝をする必要があるのでしょうか?
新約聖書には定期的に集まるようには教えていますが、主日に集まって礼拝しなさいという直接的な命令はありません。私たちは家庭で個人的に礼拝することもできますし、オンラインで礼拝に参加することもできます。主日礼拝に参加しない聖徒に圧力をかける教会もありますが、礼拝への参加の回数で信仰のあるなしが決まるわけでもありません。なぜわざわざ教会に集まる必要があるのでしょうか?
2。神様が求めている
ヘブル人への手紙が書かれた背景には、ローマの迫害やユダヤ人社会からの圧力のために、聖徒が礼拝のために集まることを避ける傾向にあったことがあげられます。そんな中で著者は集まることをやめないように呼びかけています。そして、「かの日」が近づいているのを見て、ますます集まるように勧めています。集まる習慣をやめた人々は信仰を守るために集まって礼拝しないように考えたのかもしれませんが、信仰を守るためにむしろ集まるべきなのです。
“エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。”
ゼカリヤ書 14:16-18 口語訳
旧約聖書を見ると、神様が、神の民が集まって礼拝することを強く望んでいることがわかります。ここでは異邦人のエジプト人ですら、エルサレムに毎年上ってきてイスラエル人の祭りである仮庵の祭りを祝うようになること、そうしなければ神様が災いを下すとことを教えています。つまり、神様は個人的な礼拝も喜ばれますが、公同礼拝を強く求めているのです。それは何も旧約時代だけではありません。「かの日」であるキリストの再臨の日も同様です。
“さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。”
ヨハネの黙示録 5:11-14 口語訳
黙示録を見ると、被造物全てが集まって礼拝している姿を見ることができます。過去だけでなく未来においても、私たちの集まって捧げる礼拝を望んでいることがわかります。私たちにとってどんな得があるかどうかではなく、もし私たちたちが何よりも主に喜んで欲しいという思いがあるのなら、集まって礼拝を捧げてください。それが一番良いことです。
ある人は、自分を正当化するために、教会に行かないための言い訳を探します。またある人は、霊的な渇きを感じないから教会で礼拝する必要がないと、自己中心的は判断を下します。しかし、教会を休むことが問題ではなく、どちらも神様に対する態度が間違っているのです。私たちは忙しさのあまり、疲れのあまり、2つのことを忘れてしまいがちです。一つは、本来の私たちと神様との関係は花嫁と花婿との関係だということ、もう一つは、物事には限りがあるということです。
3。渡辺和子さんのお話
1936年2月26日午前6時、雪の多い日に事件が起きました。1500名の軍人が、首相官邸や警察庁など重要箇所を襲撃し、多くの死傷者を出した2・26事件です。渡辺和子は当時9歳で、軍人で教育総監だった父と一緒に寝ていました。襲撃の物音で起きると、すでに父は起きており、和子に母のもとへ行くように言います。和子は一度部屋を出ましたが、母の部屋に行くことができず、戻ってきました。仕方なく父が和子を押し入れに隠した時、軍人たちが入ってきて機関銃で父を撃ちました。43発の銃弾を受けてなくなりました。
早い時期に父を亡くしてしまった和子ですが、一生分の愛情をすでにもらっていたと告白しています。父は、和子が病気の時は本を読んでくれ、父の眼鏡を壊してしまっても怒らず、宴会の帰りにはお土産を買ってきてくれました。和子は、父が死ぬ時に自分がいて良かったと感じたそうです。なぜなら、自分がいたので、父が一人で寂しく死なずに済んだからです。
戦後、50歳になった時、テレビ局で父を殺した人物の弟に出会いました。相手のことは恨んでいないと思っていたのですが、その時、自分がまだ相手を赦せていなかった気持ちに気づきました。しかし一方で、父の娘だと再認識して嬉しかったそうです。
60歳前になった時、父を殺した相手の法要へ参加することを求められました。迷いましたが、出席する事にしました。なぜなら、父ならそうしろと言うだろうと思ったからです。再度、父を殺した人物の弟に出会いましたが、彼は「感謝します。私たちの2・26がようやく終わりました」と言いました。その時、被害者の自分よりももっと辛い人生を送ってきた人がいたことに気づいたのです。
渡辺和子さんは、決して平坦な人生を歩んできたわけではありません。しかし、父との9歳までの思い出が、彼女の残りの80年の人生を支えてきたのではないでしょうか。
4。教会での礼拝
集まって礼拝を捧げることのできる日曜日は、神様の望みを叶える日です。当たり前に来週もやってくると思わず、どうか大切にしてください。初代教会の人々は、最初はユダヤ人たちと同じように神殿やシナゴーグに行っていました。しかし、迫害がひどくなるにつれて徐々に行けなくなり、神殿崩壊後は個人の家で礼拝するようになりました。教会に集まって礼拝できる日がいつまで続くかは誰にもわかりません。世界は目まぐるしく変化し続けています。パンデミックが起きた時のように、教会に集まることが難しくなる日が近いうちに来るかも知れません。
“神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。”
ヨハネによる福音書 4:24 口語訳
イエスは、霊とまこととをもって礼拝すべきだと教えました。私たちのひとりひとりの人生に対して真剣なのが神様です。それならば、私たちも真剣な心で教会に集まろうではありませんか。父なる神様のために集まって礼拝を捧げる1日1日が、神様にとってだけでなく、私たちの人生に影響を与える大切な思い出の日になります。大阪中央教会の聖徒にとって、日曜日が面倒くさく、言い訳がましい日になるのではなく、喜んで神様のために使う日になることができれば嬉しいです。そして大阪中央教会が、集まって神様に礼拝を捧げることのできる大切な場所になることを望みます。
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