主日説教(日本語)

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臨在を求める祈り(出エジプト33:15−16)
고요한 2025-11-08 추천 0 댓글 0 조회 35

20251109日曜韓国語礼拝

聖書:出エジプト33:15−16

題目:臨在を求める祈り

賛美:338、405

“モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。 わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。”

‭‭出エジプト記‬ ‭33‬:‭15‬-‭16‬ 口語訳‬

1。神の臨在

 コリィテンブームは戦後、講演しながら各地を回っていました。自分の体験をもとに、神様がどのように祝福を与え、耐える力を与えたか、人を赦すことの大切さを伝えるためです。ところがある日、聴衆の中からかつて自分を拷問した元ナチス兵がやってきて来ました。彼の顔を見ると、当時のつらい出来事や死んだ姉の顔が浮かんできて、コリィは暗い顔になりました。しかし彼の顔は輝いていて、このように言いました。「あなたのお話を聞けて、本当に感謝しています。イエス様が私の罪を洗い流してくださったと聞いて、心からうれしく思います」と。彼はコリィのことを覚えておらず、勢いよく握手を求めてきたのです。

 一方でコリィは復讐したい気持ちで溢れていました。あれほど赦しが大切だと語っていた自分の手が、どうしても前に出ないのです。コリィは自分の姿を通して、自分の罪を悟りました。しかし、無理矢理にでも手を差し出そうとしますが、体が動きません。コリィは「イエス様、私はこの人を赦すことができません。どうかあなたの赦しを私に与えてください」と祈りました。

 そして、ぎこちなくですが手を伸ばし、彼の手を掴みました。その時、肩から腕、手先にかけて電流が走り、彼に伝わっていくように感じました。そしてコリィは「私の全身に癒しの温かさが洪水のように溢れ、涙がこぼれた」「こんなにも神の愛を感じたことはなかった」と語っています。そして「兄弟よ、あなたを赦します。心から」と叫びました。収容所にいる時から「神様は皆さんと共におられます」と人々を励ましたコリィですが、神様の臨在によって、人を赦すことができた瞬間でした。神様の臨在は私たちに不可能なことを可能にするのです。

2。モーセの祈り

 モーセが山で神様から十戒をもらっている間、契約の民であるイスラエルは偶像を作ってそれを拝みました。山から降りて来たモーセはレビ族を通して、罪に加担した3000人を処刑し、神様に赦しを願いました。神様はそれを聞き入れ、アブラハム契約に基づいたカナンの地を与える約束を取り消すことはしませんでした。しかし、ある部分が変わりました。

 以前、神様は「マルアヒ=私の使い」をイスラエルの先頭に立たせると言っていました(出エジプト23:23)。しかし今回は、「マルアハ=1人の使い」を先頭に立たせ、カナン人を追い払うと言っています(出エジプト33:2)。ここにはどんな違いがあるのでしょうか。同じ「使い」でも「マルアヒ」は特別な神の使いです。神の臨在を表しており、受肉前のキリストであると言われています。なぜならこの「マルアヒ」は通常の使いと違って罪を赦す権威が与えられているからです(出エジプト23:21)。つまり、神様本人がイスラエルと一緒に行かないことを暗示しているのです。

 敵を追い払うための「マルアハ」は送るが、「マルアヒ」は送らない理由は、イスラエルの罪の性質のため、一緒にいるとイスラエルを滅ぼしてしまうからです。神様は、出エジプト記25章から31章までを使って幕屋に関する命令を伝えました。神様がイスラエルと共にカナンの地に入るためです。しかし、この命令も全て無駄になります。「マルアヒ」が一緒に行かなくなったことを聞いて、イスラエルの民は飾りを自分たちの身から外しました。これは反省を表しています。

 モーセは会見の幕屋を作って、これまで雲の柱や火の柱として臨在していた神様と面会します。自分がまだ主の前に恵みを得られるなら、神様が一緒に行って欲しいことを伝えました。「マルアハ」ではなく「マルアヒ」を求めたのです。祝福ではなく神様の臨在を求めたのです。神様はそれに応え、モーセとは一緒に行くことを約束しました(出エジプト33:14)。

 しかしモーセはそれだけでは満足しませんでした。イスラエルの民のために、「もしあなたが(私たち)と一緒に行かれないならば、私たちををここからのぼらせないでください」と言いました。これは神様が共にいかないのなら、民全体が荒野にいる方がマシだという意味です。モーセは罪を犯したイスラエルのために、とりなしをしており、どんなに祝福を与えられても、神様がいなければ意味がないということを伝えているのです。

 そして、イスラエルの民が他のすべての民と区別されるのは、神様が共にいるからだと言っています。神の国の民としてのアイデンティティは、神様から頂いた祝福にあるのではなく、神様と共にいることなのです。その結果、神様はイスラエルとも共に行くことを約束し、契約を更新するようになりました。神様から見ても、私たちが優秀かどうかは重要ではありません。私たちが祝福をもらうために神様に頼るのではなく、神様と共にいることを望み頼る時、神様は喜ばれます。

3。臨在を求める祈り

“わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。”

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14‬:‭16‬ 口語訳‬

 イエスは、自分の代わりに神様が聖霊を送って私たちと共にいると約束されました。マタイによる福音書の最後では、大宣教命令を伝え、その後「いつもあなたがたと共にいる」と言いました。イエスキリストを信じ、使命を持って生きる私たちにはいつも、三位一体の神様が共にいるのです。これほど心強い同行者は他にいません。私たちの人生は、苦難に満ちていますが、神様が共におられるのです。

 しかし、私たちは、自分中心に考え、自分の計画ばかりを考えるので、神様がいないように感じるのです。神様が助けてくれないと感じる時があります。しかし実際はそうではありません。神様は常に私たちと共にいて、私たちの苦労もすべて知っておられます。神様の臨在ではなく孤独を感じるのであれば、自分自身に集中することをやめてみましょう。自分の声ではなく、周りの声を聞き、頭を上げましょう。自分を見るのではなく、神様を探して見るようにしてください。悔い改めて祈る時、神様は必ず、聞かせてくださり、見せてくださいます。なぜなら私たちの一番そばにいて、私たちに必要なことを一番わかっているからです。

 だから、私たちは祝福よりも臨在を求める祈りをしましょう。私たちに必要なのは、神様の臨在であり、「マルアヒ」であり、神様ご自身なのです。「マルアハ」はあくまで臨在の副産物にすぎず、祝福だけでは私たちは神様の思いを十分に理解することすら叶わないからです。私たちが神様と同行する人生を送るとき、私たちに起こる全ての理由を悟ることができます。どのように生きるかを知るための人生ではなく、なぜ生きるかを知る人生に生まれ変わります。自分の存在理由を知ることができるのです。

 人は、ひとりじゃないと知る時、恐れが消え去ります。また、創造主により不可能なことなどないことを知る時、恐れが消え去ります。そして、なぜかを知ることができる時、恐れが消え去ります。人はいくらたくさんの祝福を受けも、優秀になっても、すべての解決方法を知っていたとしても、孤独を感じ、頼れるものがなく、存在理由が分からなければ、心に恐れが残り続けます。イスラエルの民は「マルアヒ」が一緒に行くことで、おそれを取り除き、荒野に旅立つことができました。弟子たちはイエスの代わりに聖霊が一緒に行くことで、恐れを取り除き、地の果てまで行くことができました。全ての人を赦して神の国に行く私たちにとって、本当に必要なのは祝福ではなく臨在なのです。

4。祈りましょう

 ⑴自分のための祝福ではなく、臨在を求めて祈りましょう。

 ⑵自分の思いではなく、神様の思いを知ることができるように祈りましょう。

 ⑶どのように生きるかではなく、なぜ生きるのかを祈りましょう。 

 ⑷隣人にも臨在があり、神様の思いを知り、生きる理由を知るように祈りましょう。 

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