20251116日曜韓国語礼拝
聖書:列王記上3:9−13
題目:知恵を求める祈り
賛美:590、591
“それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。 ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。 そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、 見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。 わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。”
列王記上 3:9-13 口語訳
1。何を望むか?
これはロシアに伝わる「金の魚」というお話です。ある海辺に貧しい老夫婦が住んでいました。おじいさんは毎日海に出て糸を垂らして暮らしていました。ある日、彼の釣り針に金色に輝く魚がかかります。その魚は人間の言葉を話し、「おじいさん、どうか命を助けてください。お礼にあなたの望みを叶えます」と言いました。おじいさんは驚きましたが、こう答えました。「そんなことはいい。自由になりなさい。かわいそうに、海へお帰り。」魚は感謝して海に帰りました。
家に帰っておばあさんに話すと、おばあさんは怒ります。「あんた、何をしてるのさ!そんなありがたい魚をただ逃がすなんて!せめて新しい洗濯たらいをもらえばよかったのに!」仕方なくおじいさんは再び海に行き、金の魚を呼び、おばあさんの願いを伝えました。魚はにっこり笑って「いいでしょう」と言い、帰ると古びた桶は新しい洗濯たらいに変わっていました。
しかし、おばあさんの欲は止まりません。「今度は家がほしい」「貴族の奥様になりたい」「女王になりたい」と次々に願いを叶えてもらいました。最後には「海の魚に命令できるようにしておくれ」とまで願いました。恐る恐るおじいさんは再び海へ行きましたが、海は荒れ狂い、魚は静かに沈んでいきました。家に戻ると、元のボロボロの小屋と古い桶だけが残っていました。
この物語は、人間の欲には終わりがなく、感謝を忘れると、愚かになってすべてを失うことを教えています。クリスチャンにとっても、神様に何を願うかは非常に大切です。先週は、モーセから、神の臨在を求める祈りの大切さを学びました。それでは、次に何を求めればいいのでしょうか?もしくは、自分勝手な願いでは、人は盲目になり、知恵とは程遠い存在になってしまいます。また、神様は喜ばず、聞き入れてくれません。今回、私たちはソロモンを通して何を祈るべきかを学んでいきましょう。
2。問題だらけのソロモン
ソロモンは決して完璧な王ではありませんでした。彼は不倫の関係から生まれた子どもで、父ダビデとバテシバの第二子として生まれ、人々の目には正当な王位継承者とは見られていませんでした。兄アドニヤの反乱、将軍ヨアブや祭司アビヤタルの関与により、ソロモンは国の安定のために処刑を行わざるを得ず、王位は血と争いの中で始まったのです。
さらに、ソロモンはエジプトのパロの娘と結婚しました。これは神に敵対する異教徒との結婚であり、家庭に偶像崇拝が入り込む結果となりました。その後、息子レハベアムの時代に国が分裂したことは、この影響の象徴的な結果です。また、この結婚は政略結婚でもあり、エジプトとの同盟を通して国を守ろうとしたものでしたが、神に信頼せず、人間の力に頼る姿勢でもありました。
その上、ソロモンはギブオンの高き所で礼拝をささげました。本来なら神の契約の箱が置かれたエルサレムで礼拝すべきでしたが、ギブオンの高き所とは、もともとカナン人が偶像礼拝に使っていた場所です。ソロモンは偶像崇拝の影響を完全に断ち切れていませんでした。
このように、ソロモンは多くの問題を持っていましたが、神に知恵を求める祈りを捧げ、比類なき知恵を与えられました。注意したいのは、私たちが良い行いをした分だけ、願いが叶えられるという訳ではないという事です。過去や立場に関係なく、真心で神の心を求める祈りを捧げれば、神様は喜んで応えてくださるのです。
3。神に喜ばれたソロモンの祈り
ソロモンはギブオンで一千回のいけにえをささげました。動物を殺し、血を抜き、肉を裂いてささげる、それを一度ではなく千回行うというのは、並大抵の労力ではありません。彼はその行動を通して、自分の力ではなく、主への感謝と献身の思いを表したのです。神様はその行動に現れるその心を見て、夢の中でソロモンに尋ねました。「何を願うのか。わたしがあなたに与えよう。」(列王記上 3:5)そのときソロモンは、富でも、長寿でも、敵の命でもなく、「訴えを聞き分ける知恵」――つまり、神の民を正しく導く心の知恵を求めたのです。
① 神が喜ばれた理由 その1 ― 自分の限界を認める心
ソロモンは、自分が若く、経験がなく、神の助けなしには国を治めることができないと正直に認めました。彼の祈りの中には、「自分は足りない存在である」という謙遜がありました。聖書はこう語ります。「自分を信頼する者は愚かであり、知恵によって歩む者は安全である。」(箴言28:26)彼は、自分には知恵がなくても、神様が共におられれば大丈夫だと信じました。一方、パリサイ人のように「自分は正しい」「自分の方がましだ」と考える人を神は喜ばれません。神が喜ばれるのは、自分の足りなさを認め、神の助けを必要としていると告白する人なのです。
② 神が喜ばれた理由 その2 ― 目に見えないものを求めた心
ソロモンは、富や名誉のような形あるものを求めませんでした。彼が求めたのは、目に見えない「知恵」でした。聖書は言います。「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く。」(Ⅱコリント4:18)ソロモンの祈りは、一時の繁栄ではなく、永遠に価値のある神の知恵を求める祈りでした。神は、目に見える祝福よりも、目に見えない信仰の姿勢を喜ばれます。
③ 神が喜ばれた理由 その3 ― 自分のためではなく、神と人のための祈り
ソロモンは、自分の名誉や幸福を願ったのではなく、神の国を正しく治め、神の民を正しく導くために知恵を求めました。それは、イエスが教えられた「神を愛し、隣人を愛しなさい」(マタイ22:37–39)という掟そのものでした。真の祈りとは、「自分のため」ではなく「神のため」「人のため」に捧げられる祈りです。それがソロモンの祈りです。
④ 神が与えた報い
神様は、ソロモンの祈りを喜び、「あなたの求めた知恵を与える。また、あなたの求めなかった富と誉れも与える」と言いました(Ⅰ列王3:12–13)。ソロモンは、まず神の国と神の義を第一に求め他のです。そして、イエスの言葉の通り、「そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられる」(マタイ6:33)ようになりました。神様に喜ばれる祈りを捧げる時、私たちに必要なものまで添えて与えられるのです。
ソロモンは完璧な王ではありませんでしたが、自分の足りなさを認め、神の国と神の民のために、神の知恵を求めました。その心こそ、神が喜ばれる祈りの姿です。私たちも同じように、自分のための知恵を求めるのではなく、神と人のために知恵を願う時、神様は喜んでその祈りに応えてくださることを信じてください。
4。誰のための知恵か?
私たちは富や権力、人脈などの祝福を求めるべきではありません。まず求めるべきものは「知恵」です。この世の富や成功は一時的なものです。アメリカでは宝くじに当たった人の多くが、数年後には貯金が減り、仕事を辞め、浪費を重ねて生活が崩れてしまうという例が多くあります。しかし、日本で成功したある人は、当選しても生活を変えませんでした。なぜでしょうか?その差は知恵です。どれほど多くのものを与えられても、それを管理する知恵がなければ、すぐに失ってしまいます。たとえば教会に新しい人を送って下さいと祈りたくなりますが、私たちの準備ができていなければ、人が来ても去ってしまいます。まずは、私たちが新しい人を導くことのできる知恵を神様に求める必要があるのです。まず私たちに必要なのは祝福を管理できるだけの知恵なのです。
また、もし私たちが「自分のより良い暮らし」や「自分の幸せ」だけを目的に求めるなら、神様は喜ばれません。世の中では「夢を大きく持ちなさい」とよく言われますが、夢が大きければそれで良いというわけではありません。神様が喜ばれるのは、「神のため」「人のため」に求める祈りです。そのような祈りには、神様が喜んで応えてくださいます。そして、自分に本当に必要なものは、そのあとで“添えて”与えられるのです。
イエスもゲッセマネの園でこう祈られました。「父よ、もし御心なら、この杯を私から取り除けてください。しかし、私の願いではなく、御心がなりますように。」(ルカ22:42)ここに示されているのは、自分の幸せのためではなく、神の御心を第一に求める祈りです。人として十字架の苦しみを避けたいという思いを持ちながらも、イエスは自分の願いより神の御心を優先されました。そしてその力を、自分のためではなく、人類の救いのために用いられたのです。その結果、十字架にかかり死なれましたが、三日目によみがえられ、私たちに救いをもたらしてくださいました。
5。まとめ
ソロモンが求めたものは何だったでしょうか。それは、自分のための知恵ではありませんでした。この世を生きるために自分を有利にする知恵ではなく、神の国と神の民のための知恵を求めたのです。そして、神の前にへり下り、神様を最優先にするその心こそが、神様に喜ばれました。
イエス様はどのように生きられたでしょうか。イエスは、自分のための知恵を求めたりはしませんでした。人々に認めてもらうことよりも、むしろ福音を正しく宣べ伝えるために知恵を使いました。その結果、多くの人々が離れて行きましたが、神様の約束を成就するために十字架にかかり、その死を通して私たちを救われました。そして三日目によみがえられ、永遠の救いをもたらしてくださいました。
では、私たちはどのように生きるべきでしょうか。自分の人生を豊かにするためではなく神様のため、他の人のために生きることを目指して知恵を求めて下さい。そうすれば神様は喜び、私たちを用いるために知恵を与えて下さいます。ソロモンやイエス様のように、神様から知恵を授かり、その知恵で神様と隣人のために生きる大阪中央教会の生徒になることを望みます。


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