20251123日曜韓国語礼拝
聖書:サムエル上23:9-13
題目:始める前の祈り
賛美:393、401
説教:高曜翰 牧師
“ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知って、祭司アビヤタルに言った、「エポデを持ってきてください」。
そしてダビデは言った、「イスラエルの神、主よ、しもべはサウルがケイラにきて、わたしのために、この町を滅ぼそうとしていることを確かに聞きました。
ケイラの人々はわたしを彼の手に渡すでしょうか。しもべの聞いたように、サウルは下ってくるでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうぞ、しもべに告げてください」。主は言われた、「彼は下って来る」。
ダビデは言った、「ケイラの人々はわたしと従者たちをサウルの手にわたすでしょうか」。主は言われた、「彼らはあなたがたを渡すであろう」。
そこでダビデとその六百人ほどの従者たちは立って、ケイラを去り、いずこともなくさまよった。ダビデのケイラから逃げ去ったことがサウルに聞えたので、サウルは戦いに出ることをやめた。”
サムエル記上 23:9-13 口語訳
1。恩を仇で返す
ある友人が「お金を貸して欲しい」と言ってきました。事情を聞いてかわいそうに思ったあなたはお金を貸すことしました。しかし、感謝もなく返済もなく、とうとう関係まで壊れてしまいました。そして、あなたは傷ついてしまったのです。さて、何が問題だったのでしょうか。
自分の基準で判断し、善意をもって行動したとしても、失敗することがあります。恩を仇で返されることがあります。それは、私たち人間の視点には限界があり、見えていない部分があるからです。相手が誤解している場合もあれば、自分が誤解している場合もあります。
それでは、私たちが傷つかないためにはどうしたらいいでしょうか。それを今日のダビデの祈りから学びたいと思います。
2。ダビデの祈り
ダビデは、サウルに命を狙われ、逃亡生活をしている最中でした。サウル王はダビデに集中しているため、政治が疎かになってしまい、周辺の民族はここぞとばかりイスラエルを攻撃し始めました。今回は、国境付近にあるケイラという町がペリシテ人のターゲットとなってしまいました。ケイラには穀物の打ち場があり、ここが攻撃を受ければ、イスラエルは食糧面で損害を受けてしまいます。ダビデはまだ王ではありませんが、自分の国を守るため、サウルの目を掻い潜ってケイラを助けに行くことにしました。
そこでダビデはまず、神様に「私が行って、このペリシテ人を撃ちましょうか」と尋ねました。どう考えても、ペリシテ人の攻撃を受けているケイラの人々を助けることは良い事です。しかし、ダビデは自分が行くべきかを神様に尋ねました。ここにサウルとの対照的な姿があります。サウルは良かれと思って、サムエルの到着を待たずに、生贄を捧げました。もちろん神に助けを求めるためです。一見、信仰的に見える行動でしたが、実際は自分の判断を優先した罪の行動でした。一方でダビデは、ケイラの人々を助けに行くという明らかに良い行いをする時にも神様に祈ったのです。
神様は「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」と答えました。ダビデはその通りにケイラの人々を助けに行き、救出に成功しました。神様に尋ねなくても、ダビデはどの道助けに行って、勝利したことでしょう。尋ねても尋ねなくても同じと思うかもしれません。しかし、その都度その都度神様に尋ねることはとても大切なことです。
ここで新たな問題が発生しました。ダビデがケイラにいることがサウルの耳に入ったのです。サウルは全ての民を集めて、ケイラもろともダビデを攻撃しようとしました。その話を耳にしたダビデは、祭司アビヤタルに願って、「ケイラの人々は私をサウルの手に渡すでしょうか。サウルはケイラに下ってくるでしょうか」と神様に聞いてもらいました。人間的な感覚から言えば、ケイラの人々にとってダビデは命の恩人です。売り渡すはずがありません。しかし、ダビデをかくまったとして、祭司の町ノブはサウルに滅ぼされています。ダビデは神様に尋ねることを忘れませんでした。神様は「サウルは下って来る。ケイラの人々はあなた方を渡すであろう。」と答えました。
ダビデとその仲間たち600人は出て行くことにしました。その噂を聞いたサウルはケイラの街への攻撃をやめました。そのため、ダビデたちとケイラの人は、傷つくことなく助かったのです。重要なのは、ダビデは人間的な判断をせず、神様の判断を求めたという点です。
ノブの町は、人ではなく神を恐れ、ダビデを助けたため、滅ぼされてしまいました。生き残ったアビヤタルだけがダビデと合流できました。一方で城塞都市でもあるケイラは、神様ではなく人を恐れたため、サウルが攻めてきた場合にダビデをサウルに引き渡すことに決めました。一見すると、祭司の町ノブは哀れで、城塞都市ケイラは賢いようにも見えます。しかし、霊的な目で見ると全く逆なのがわかります。祭司の町ノブは正しいことをした町として聖書に記録されています。また、生き残りのアビヤタルは神の忠実な僕ダビデの手厚い保護を受けました。一方で城塞都市ケイラはダビデを見捨てた町として記録されてしまいます。どちらの町の人々が神様に喜ばれるかは明白です。
3。適用
今日の本文を通してお伝えしたいことは、開始前の祈りをしましょう、ということです。重要な決定をしたり、物事を始める時、人間的な判断ではなく、神様の判断を仰ぐことが重要です。
なぜなら、人間は限りある存在なので、偏見や願望のせいで物事を正確に判断ができません。また、どんなに知恵があっても感情や健康状態で判断を簡単に誤ってしまいます。ダビデはケイラを助ける時も、サウルがやってくる時も、判断を神様に仰ぎました。その結果、助けはするが、逃げるという選択をすることになりました。人間的な考えではなかなかそのように判断することはできません。ダビデは祈ることで、正しい判断を下すことができたのです。その結果、精神的にも肉体的にもダビデたちは傷つくことを回避することができ、サウルの軍隊もケイラの人々も血を流さずに済みました。私たちクリスチャンは全てを見通すことのできる神様に頼って、始めることができる特権を忘れてはいけません。せっかくの特権なので、開始前の祈りをして神様の知恵を頂きましょう。
そして、開始前の祈りをすることによって、知恵ある決断ができるだけではなく、私たちはおそれを克服することができます。人は弱い存在なので、正しいとわかっていてもそれを行う力がありません。そして、自分より力強い存在の前では恐怖で怯え、わかっていても悪い道を選択することしかできなくなります。ケイラの人々がそうでした。自分たちを助けてくれたダビデをサウルに引き渡す選択しかできなかったのです。自分の命の恩人を、自分の命惜しさに売り渡すことが間違っていることは誰の目にも明白です。城塞都市であり、武装が他の町よりあるはずなのに、ペリシテに恐れ、サウルに恐れながら生きていくしかないのです。一方で、祭司の町ノブの人々は、サウルを恐れることなくダビデを助け、助けたことを正直に話しました。その結果命を落とすことになりましたが、人を恐れず正しいことができたのです。武装もないのに、恐れることなく、神様に喜ばれる道を選択することができたのです。私たちには神様がついています。だから人に怯えながら、選択肢のない人生を生きる必要はありません。人を恐れず堂々と数ある選択肢から堂々と正しい選択をしていいのです。これもせっかくの特権なので、開始前の祈りをして神様から勇気をいただきましょう。
ダビデだけではなく、イエスも開始前の祈りをしていました。イエスは夜明け前に祈り、1日を始めていました(マルコ1:35)。また重大な決断をする時は夜通し祈っていました(ルカ6:12)。また、習慣的に決まった場所に行って祈っていました(ルカ22:39)。このようにイエスの活動には、いつも祈りがあったことがわかります。家族や故郷の人々、社会的地位のあるパリサイ人やサドカイ人に攻撃を受けながらも、大胆に宣教を行うことができたのは、祈りのお陰ではないでしょうか。イエスが恐ろしい十字架の道を全うできたのも祈りのお陰です(マタイ26:36−46)。そして、イエスの祈りは、私たちも同じように祈ることを勧めています。救い主であるイエスより、知恵も勇気もない私たちは尚更祈りながら生きるべきる存在ではないでしょうか。そのために、イエスは私たちにイエスの名によって祈る特権を与えてくれました。それが祈りです。私たちはイエスの名によって祈る時、願いを叶えることのできる特権をもっているのです。
“わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。”
ヨハネによる福音書 14:13 口語訳
4。まとめ
私たちは開始する前に祈りましょう。人間の基準で決断するためではなく、神様の基準で決断するためです。正しい事をしたくてもできない、仕方ないと、一日を怯えながら過ごすのではなく、大胆に正しいことをしながら1日を過ごすためです。ダビデのようにイエスのように祈りの特権を使って、勝利する日々を過ごしましょう。


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