2025年11月30日 日曜日本語礼拝
聖書:詩篇22:1
題目:捨てられた者のメシア
賛美:18、97、104
説教:高曜翰 牧師
「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」(詩篇22:1 口語訳)
第1章 私たちが求める救世主
私たちはしばしば救世主としての理想像を思い描きます。たとえばスーパーマンのように、超人的な力を持ち、飛行能力もあり、ほぼ無敵な体で大都市や地球規模の危機に直面しても圧倒的な解決力を発揮し、誰もが憧れる存在です。しかしそのような力だけの救世主は、私たち人間の弱さや日常の苦悩に共感することはほとんどできません。彼は「悪を倒すこと=正義」として行動する力ある裁判官の姿に過ぎず、真に私たちに与えられた救世主とはどのような存在でしょうか。
第2章 詩篇22篇の背景と内容
詩篇22篇は、ダビデが義理の父に命を狙われたときや、息子に追放されたときなど、苦難の中で作った歌です。その成立は前1010年から前970年ごろとされ、最終編成は前6世紀から前5世紀に行われ、紀元前2世紀にはすでに聖典として確立されていました。イエスの誕生以前にすでに知られていたこの歌は、ユダヤ人たちがメシアの到来を証明する手がかりとなりました。
1節から5節では、極度の孤独感からくる嘆きが表現されています。「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」と、見捨てられた苦しみの中で神に問いかける声が響きます。しかし神は聖なる方であり、先祖たちは神を信頼して救われてきました。6節から11節では、人々が取り囲んで嘲笑うあざけりの場面が描かれますが、ダビデは「彼は主に身を委ねた、主に彼を助けさせよ」と述べ、神の守りを思い起こします。12節から21節では死に至るほどの苦難が描かれます。「私の手と足を刺し貫いた」「私の着物をくじ引きにする」といった苦しみを受けながらも、ダビデは神に助けを求め続けます。そして22節から31節では、最終的に救いが与えられることが示されています。「あなたのみ名を兄弟達に告げ、会衆の中で褒め称える」と記され、求め続ける者には神の救いが与えられるのです。
第3章 メシア預言としての詩篇22篇
詩篇22篇はメシア預言としても理解されます。「わが神、わが神、なにゆえ私を捨てられるのですか」という叫びは、マタイ27:46のイエスの言葉、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と重なります。メシアでありながら神に捨てられる経験をすることが予告されていたのです。
また、「彼は主に身を委ねた、主に彼を助けさせよ」という言葉は、マタイ27:43の「彼は神に頼っているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうが良い」と対応し、メシアでありながら自分が救う人々から捨てられることも示されています。「私の手と足を刺し貫いた」「私の着物をくじ引きにする」という表現は、ルカ24:39やマタイ27:35の記述と重なり、メシアでありながら自分が救う人々から傷つけられ奪われることも予告されていました。
第4章 捨てられた者に寄り添うメシア
この預言が示すメシアは、王のように誕生を喜ばれ、全てを持つ存在ではなく、むしろ持たざる者として生まれ、捨てられ奪われる最後を迎えるお方です。ヘブル人への手紙4:15にあるように、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」と示されています。イエスは愛する私たち人間の弱さを知るため、上からではなく下から私たちに会いに来るために生まれ、死ぬために生まれました。私たちに本当に必要なのは、単なる力強いスーパーヒーローではなく、共感して寄り添ってくださる方なのです。
だからこそ、私たちは孤独を感じても、私たちの弱さに寄り添うメシアがいることを忘れてはいけません。人々から捨てられ、奪われ何もなくても、詩篇22篇のメシアがそばにいてくださいます。求め続けるなら、必ず答えてくださるのです。
第5章 まとめ
詩篇22篇は、単なる古代の嘆きの歌ではなく、私たちへのメッセージです。メシアは力強い王としてだけでなく、私たちと同じ苦しみを経験し、孤独や嘲笑に耐えながら命を捧げる方として来られました。ヘブル4:15が示すように、イエスは私たちの弱さを知り、共感し、助けてくださる大祭司です。だからこそ、どんな孤独や困難の中にあっても、信頼して神に寄り添いましょう。求め続ける者には必ず答えを与え、私たちを見捨てず救い出すメシアがいることを、心に留めてください。


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