2025年11月30日 日曜韓国語礼拝
聖書:詩篇16:10
題目:陰府からよみがえるメシア
賛美:98、105
説教:高曜翰 牧師
第1章 出口のない陰府
私たちは人生の中で、「先が見えない暗闇」に入ることがあります。病気、経済の問題、人間関係の断絶、将来への不安など、どれほど祈っても状況が変わらず、まるで陰府(シェオール)=出口のない場所に閉じ込められたように感じるときがあります。実際の陰府とは、死んだすべての人がたどり着く場所であり、パラダイスも陰府の一部に含まれます。一度入れば決して抜け出すことはできず、これまで陰府から脱出した人間は一人もいません。だから私たちは死を恐れるのです。
しかし、今日の詩篇16篇でダビデは、そのような絶望的な状況の中でも大胆に告白しています。「主を自分の前に置く者は、陰府に捨て置かれない」と。新約ではペテロがこの詩篇を引用し、「この預言はイエスの復活によって成就した」と力強く宣言しています。私たち自身には陰府から抜け出す力はありませんが、私たちを陰府から救い出すことができるお方が存在し、その力を自ら示してくださったのです。それがメシアです。今日の本文を通して、陰府からよみがえるメシアと、そのメシアを前に置く者の確信について学び、私たちが陰府からよみがえるためにはどのように生きるべきかを見ていきましょう。
第2章 本⽂解説
まず背景を理解しましょう。詩篇16篇は、ダビデが困難の時に歌った歌です。冒頭にある「ミクタム」の意味ははっきりしていませんが、金文字、深い思慮、あるいは歌の様式を示す言葉ではないかと考えられています。この歌は、困難な状況にもかかわらず、ダビデが神様に対して持っていた姿勢を表しています。
1節から4節では、神への信頼が描かれています。ダビデは他のものに頼らず、神だけに頼ることを告白します。「あなたの他に私の幸せはない」と宣言し、神の国と神の義(マタイ6:33)が自分の幸せであることを示しています。
5節から6節では、神からの祝福が語られています。「測り縄は私のために好ましい所に落ちた」とあるように、土地が与えられ、「あなたは私の分け前を守られる」と、与えるだけでなく守るお方であることがわかります。神は必ず報酬を与える方です。
7節から9節では、神を喜ぶ姿勢が示されています。「私は常に主を私の前に置く。主が私の右にいます」と述べ、意識的に主を見つめて生きることの大切さ、そして神を導き手、保護者として認めることが強調されています。まるで花嫁が常に花婿を意識し、右側に父や花婿を置くように、神の国と神の義を人生の道しるべとして意識的に見つめて生きるのです。
10節から11節では、永遠の命の確信が語られます。「あなたは私を陰府に捨て置かれず」「あなたは命の道を私に示される」とあるように、主を自分の前に置く者は死に勝利することができるのです。ダビデ自身も陰府に行くことを経験しましたが、抜け出してよみがえることを確信しています。
第3章 適用
この詩篇16篇は、ペテロも使徒行伝2:25−28で引用しています。ペンテコステの後、人々の前でイエスの復活を伝える際に、ダビデのこの詩篇を引用しました。ダビデ自身は死んで埋葬されましたが、イエスが復活することでダビデの預言は成就したのです。この預言は、やがて来るメシアが陰府から蘇る力を持っていることを示しています。そして常に神を前に置き、右に立たせる人は、同じように蘇ることができ、ダビデのように確信を得ることができます。
では、常に神を前に置き、右に立たせる生き方とはどういうものでしょうか。それは、自分の幸せを「自分の計画通りになること」に置くことをやめ、自分の幸せを神の国と神の義の成就に置き、それを信じて歩むことです。たとえば障害を持った子供を授かったとき、堕すべきか産むべきか悩む中で、神を前に置き、神の義に従って歩む決断が求められます。
第4章 まとめ
詩篇16篇は、単にダビデの個人的な信仰を語った詩ではありません。ペテロが示すように、これはメシアの復活を預言した詩であり、そのメシアを自分の前に置く者の人生の方向性も示しています。自分の幸せを「自分の思い通りになること」に置くなら人生は揺れます。しかし、自分の幸せを「神の国と神の義」に置くなら、揺れることはありません。
あなたの前には何がありますか?主を前に置き、主を右に置く者は、死にも、絶望にも、未来への不安にも支配されません。なぜなら、イエスが陰府を打ち破ってよみがえったからです。私たちもダビデやペテロのように確信を持ち、新しい一週間を力強く歩んでまいりましょう。


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