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死に立ち向かうメシア(ヨハネ11:32-44)
고요한 2026-03-14 추천 0 댓글 0 조회 39

20260315日曜日本語礼拝

聖書:ヨハネ11:32-44

題目:死に立ち向かうメシア

賛美:39、267、623

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

“マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。 イエスは涙を流された。 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。”

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭11‬:‭32‬-‭44‬ 口語訳‬

1。エンブリマオマイ

 動物は怒ったときや敵に直面したときに、低い唸り声を上げます。それは感情が限界まで高まり、内側に溜まった感情があふれ出る状態です。唸り声は相手への威嚇であり、攻撃の前段階の状態であると言われます。しかし、唸り声は必ずしも攻撃のためだけではありません。むしろ多くの場合、それは「これ以上近づくな」という警告です。戦いを避けるための最後のサインとも言えるでしょう。ですから動物が唸り声を上げているときは、その行動をやめて距離を取る必要があります。古代のギリシャ語にも、このような状態を表す言葉がありました。それが ブリマオマイ(βριμάομαι) という言葉です。これは、馬や牛などが鼻息を荒くして威嚇する様子を表す言葉としても使われ、強い憤りや激しい感情を表す言葉でした。

 さて、ラザロの事件の中で「激しく感動する」(口語訳)という言葉が2回出てきています。人々が悲しみで泣いている中で、イエスだけが激しく感動しています。これは何を表しているのでしょうか?ギリシャ語ではἐμβριμάομαι(エムブリマオマイ)という単語が用いられています。ἐμ(エム)は「内側で」という意味で、βριμάομαι(ブリマオマイ)は「強く憤る」という意味です。つまり、イエスは静かな悲しみではなく、内側で唸るように湧き上がる激しく憤りを持っていたということです。なぜイエスがこれほどまで激しい憤りを覚えたのかを見ていきましょう。

2。本文解説

 背景から説明します。イエスはユダヤ人たちの石打ちを避けるため、ヨルダン川東部に避難しています。そこに友人のラザロが危篤だという知らせが届きます。弟子たちは反対しましたが、イエスは危険を承知で川を渡り、ラザロの元に来ました。しかし、到着した頃には、ラザロは死んで葬られ、4日も経っていたのです。

 マルタもマリヤも「あなたがここにいたなら、ラザロは死ななかったでしょう」と言い、ラザロの死を悲しみました。また、周りのユダヤ人たちも同じように悲しみました。それを見たイエスが、最初に表した感情が「激しい憤り」(エムブリマオマイ)でした。誰に対してでしょうか?マルタでもマリヤでも、周りのユダヤ人たちでもありません。それは、死が人々を支配している現実に対してです。死んだら終わりだという考えに縛られ、死に支配されているこの状況に対して憤りを感じたのです。

 そして、イエスは涙を流しました(ヨハネ11:35)。主語と動詞だけで構成される聖書の中でもっと短い節です。しかし、とても深い言葉です。激しい憤りを感じる一方で、心が動揺する一方で、イエスは愛する人を失った悲しみを人々と共に味わいました。イエスの涙を示すこの一文は、イエスが私たちの悲しみを理解し、共感して下さるお方であるということを教えています。イエスは私たちの痛みを知らない方ではありません。私たちの苦しみを見て涙を流される方なのです。

 そしてイエスは再び、激しい憤り(エムブリマオマイ)を表しました。しかし今度は墓の前です。つまりイエスは死そのものと向き合っています。イエスはまるで敵の前に立つ戦士のように死と向き合っているのです。そしてイエスは。「ラザロよ、出て来なさい」と叫びました(ヨハネ11:43)。すると死人が墓から出てきました。死は、イエスの声に従い、ラザロを解放するしかなかったのです。

 この事件をきっかけに、多くのユダヤ人がイエスをメシアだと信じるようになりました。その結果、イエスは人々の歓迎を受けてエルサレムへ入城することになるのです。一方で、パリサイ人たちは、自分たちを称えず、律法も伝統も守らないイエスを殺害する決心を固めることになりました。歴史的な観点では、ラザロの復活がなければイエスはもう少し長生きできたのではないかと言われています。

3.適用

① 私たちの救い主は「死に立ち向かう方」である

 この出来事からまず分かることは、イエスキリストは、ただ私たちを慰めるだけのお方ではないということです。確かに主は、私たちの苦しみを見て涙を流してくださるお方です。しかし同時に、私たちとは違い、死を恐れて逃げる方ではありません。むしろ主は、死という敵に立ち向かって戦われるお方です。そしてその戦いにおいて、主は必ず勝利されます。神の前で、死は敗北者となる以外に道はありません。

 イエスは神であり、死を前にして平静であったのではありません。むしろ「激しい憤り」を覚えられました。ここで使われている言葉がἐμβριμάομαι(エンブリマオマイ)です。それは内側から湧き上がる激しい憤りを表す言葉です。主は、死に対して怒っておられました。それほどまでに、私たちを愛しておられるのです。

② 私たちは「死に支配された考え」で生きている

 しかし私たちはどうでしょうか。私たちは死を恐れるあまり、死に支配された人生を送っています。私たちのために「死」に立ち向かう神の言葉ではなく、「死」が私たちの考え方や人生を支配してしまうのです。マルタやマリヤ、そして周りの人々も「死」に支配されていました。彼らは、ラザロが生きている間にイエスが来ることを望みました。彼らの中にはイエスがよみがえらせるという考えはありませんでした。私たちも同じです。死に支配された考えの中では、「復活」という希望がなかなか出てきません。目の前の問題が早く解決するかどうか、自分の思い通りになるかどうか、それが人生の中心になってしまいます。そのため、時には神がご自身の栄光のために働かれることを理解できず、「神は私を愛していないのではないか」と感じてしまうこともあります。ラザロの出来事でも、イエスはあえて時間を遅らせ、ラザロが死んで四日後にベタニヤに到着されました。死に縛られた考えの中では、「もう少し早ければ」と失望するしかないのも当然です。

③主の愛を知ると「死の支配から解放される」

 しかし私たちは忘れてはなりません。イエスは、危険の中でも助けに来てくださるお方であり、私たちのために涙を流してくださるお方であり、激しい憤りを表すほど私たちを愛しておられるお方であるということをです。力だけでなく、愛を持って私たちを救って下さるお方なのです。ただ力あるだけではなく、愛があるお方なのです。

 重要なことは、ラザロが生き返ったことそのものではありません。この出来事で現れた愛を通してイエス・キリストが信頼できるお方であることを知ることです。イエスの力だけを見るのではなく、イエスキリストの愛の人格を見ることで信頼してください。それが本当にイエスキリストをメシアとして受け入れることになります。

 例えば、皆さんが女性だとしたら、どんな男性を結婚相手に選びますか?能力のある人でしょうか?優しい人でしょうか?たとえ能力や優しさが足りなくても、共に涙を流し、逃げずに守ってくれる人が本当の幸せを運んでくれるのではないでしょうか。私たちがイエスを見るときも、外側に現れる力だけではなく、内側にある愛をも見る必要があるのです。

 

4。まとめ 

 限られた人生の中で、皆さんは何を求めていますか?「死」の前に立って、私たちを解放するために激しく憤るイエスキリストを求めてください。最初は怖く見えるかも知れません。遅れてくる姿に不満を持つかもしれません。しかし、その愛を信頼してより頼むとき、私たちはラザロのように「死」の支配から解放された存在になるのです。「死」に怯える人生を送るのではなく、「死」から解放され、キリストの守りと導きのある人生を選択する祝福があるようにお祈りします。 

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