20260322日曜日本語礼拝
聖書:ヨハネ12:24-25
題目:一粒の麦として生きる
賛美:40、148、144
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
“よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。”
ヨハネによる福音書 12:24-25 口語訳
1。人は何で生きるのか?
①食べ物や安全だけで生きていけない。
人は物質的に満たされたとしても、人間関係なしには生きられません。13世紀の神聖ローマ帝国で、皇帝フリードリヒ2世による恐ろしい実験が行われました。目的は、言葉を教わらなかった赤ちゃんは、どんな言葉を話すようになるかを知るためです。50人の赤ちゃんに生きるために最低限の世話(ミルク、おむつ替え、お風呂など)をします。ただし、スキンシップ・コミュニケーションを禁止します。赤ちゃんの目を見ず、笑いかけず、話しかけません。その結果、49人が3歳までに、1人が6歳までに亡くなりました。敵によって記された本の内容なのでどこまで本当かは不明ですが、この話は人が食べ物や安全だけでは生きていけないということを教えています。
②自己犠牲の愛
人は誰かの自己犠牲の愛によって、命を繋ぐことができます。そのことを最も身近に教えてくれるのが、母の愛です。母は妊娠したその時から、自分の生活や体調に大きな変化を受け入れていきます。食べるもの、休む時間、行動の一つひとつが変わっていきます。出産の後もその愛は続きます。夜中に起きて子どもの世話をし、泣けば抱き、病気になれば心配し、自分の休息よりも子どもを優先します。母は自分の時間も体も思考も、日々の多くを子どものために差し出して生きています。その献身的な母の愛の結果として、子どもは守られ、育てられ、成長していくことができるのです。
③キリストの愛
しかし同時に、その愛には限界があります。疲れや不安、葛藤の中で、人間の愛は揺れ動き、完全ではいられません。しかし、聖書は完全な愛の存在を教えています。それがイエス・キリストです。単なる愛の模範ではなく、ご自身のいのちを与えることによって、私たちを生かしてくださった方なのです。母の愛は子どものいのちを支えますが、キリストの愛は、私たちに永遠のいのちを与える愛です。そしてその愛が私たちに与えられているのです。今日の本文では、キリストの愛をどのようなものかを知り、私たちがどのように生きていくべきかを考える時間になれば幸いです。
2。本文解説
① 背景
今日読んだ聖句は、イエスが弟子たちに言った言葉です。そしてこのような言葉を言ったのは、ピリポとアンデレがギリシャ人たちをイエスの前に連れてきたからです。彼らは異邦人でありながら、イスラエルの神様に関心を持ち、イエスを求めてやって来た人々でした。しかし、単にイエスの言葉を聞きに来たのではないようです。イエスの発言から逆に考えると、このギリシャ人たちはイエスが命を狙われていることを知り、避難するよう忠告するために来たと考えられます。
しかし、イエスはギリシャ人たちが自分の元に来たことに対して、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いました。これは、自分に十字架の時が来たという意味です。普通なら、十字架は敗北です。しかし、イエスにとっては、神の救いが完成へ向かう栄光なのです。
ちなみに、イエスはここで初めて十字架の道を知ったわけ訳ではありません。すでに知った上で、エルサレムに入城しています。十字架の道が始まったことを知っていたのです。ギリシャ人たちが訪ねて来たことは、救いがユダヤ民族の枠を超えて、世界へ広がり始めるということを弟子たちや人々に見せるための「しるし」なのです。
② 24節
イエスは続けて、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と言いました。「一粒の麦」とはイエス自身で、「地に落ちて死ぬ」のは十字架の死を表しています。そして「豊かに実を結ぶ」とは、多くの人々が救われることを表しています。本来、一粒の麦は守られるべきものです。しかしイエスはその常識を逆転させ、「死ぬことによっていのちを生む」という神の国の救いの法則を示したのです。自分を守るのではなく、捧げることで、いのちが広がるという逆転の考えです。もしキリストが死ななければ誰も救われません。キリストの死によって、多くの救われた者が生まれます。死は終わりではなく、多くのいのちを生み出す手段だと言うことを教えています。
③25節
さらにイエスは「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」と言いました。これは感情の話ではなく、人生の中心をどこに置くかという優先順位の問題です。「愛する」と「憎む」は優先順位を強調するユダヤ的表現です。わかりやすく言えば、自分を中心に生きるのか、それとも神様を中心に生きるのか、ということです。その選択が、永遠のいのちと失われるいのちを分けるのです。このように言ったのは、単にイエスが犠牲を払って終わりではなく、弟子たちに、神様中心の生き方を学んでほしいと言う思いがあります。
③ イエスの祈り
イエスは、自分が犠牲となることをはっきり理解していました。しかし「この時から救ってください」とは祈らず、むしろ「父よ、御名があがめられますように」と祈りました。自分を優先するのではなく、父の御心を完全に優先する従順の祈りでした。イエスは自分の命が守られることよりも、父の栄光が現れることを選択したのです。
そのとき天から「わたしはすでに栄光を現した。再びそれを現す」との声がありました。
これは単なる慰めの声ではありません。これから起こる十字架が失敗ではなく、神様の救いのご計画の中心であり、復活を通して完成するという宣言です。人の視点では、死は終わりのように見えても、神の視点では完成へ向かう通過点なのです。
3。適用
① 一粒の麦として生きたキリスト:誰にも代われない救い
イエス・キリストの十字架は、人類のための、ただ一度だけの、唯一の救いの出来事です。これによって私たちの救いが完成しました。私たちは誰も自分自身を救うことはできません。罪によって壊れた神様との関係は、人間の努力や善行によっては決して回復しません。だからこそイエスは、唯一の一粒の麦として地に落ち、死なれました。それは私たちに代わって罪を負い、神様との和解を成し遂げるためです。私たちの努力や能力などではなく、イエスの犠牲によって、私たちは命を得ることができるようになったのです。
②一粒の麦として生きる私たち:救いへの応答
イエスは私たちに、一粒の麦として生きることを望んでいます。イエスの「自分の十字架を負って従いなさい」という他の言葉からも分かります。しかし誤解しないでほしいのは、一粒の麦として生きる、というのは救いの条件ではありません。それは、すでにイエスキリストによって達成されています。私たちの一粒の麦としての生き方は、救いに対する応答です。
そして私たちの一粒の麦としての生き方は、キリストのように直接的な救いを与えることはできませんが、救いに導くことができます。私たちの犠牲を通して誰かがキリストを信じるようになります。私たちのうちに現れる御霊の実りによって、イエスに似てくるからです。母親が子供のために犠牲を払うことができるように、私たちも人々のために犠牲を選択することができるようになるのです。これは一粒の麦としての生き方を強制しているのではありません。私たちもイエスに似た生き方ができるようになることを知ってほしいのです。
4。まとめ
イエス・キリストは一粒の麦として犠牲となり、多くの人にいのちを与えました。その十字架によって、私たちはすでに救われています。だから私たちに必要なのは、罪から救われるための努力ではなく、救われた者として生きる努力ではないでしょうか。
それが一粒の麦としての生き方であり、「キリストの命が私たちから溢れた出た結果」です。決して「自分が救われるための条件」でも「誰かを救うための条件」でもありません。救いは「私たちが達成するもの」ではなく、「キリストによってすでに成し遂げられた恵み」です。
最も重要なのは、キリストが私たちを愛して、一粒の麦として犠牲となったことです。それを忘れないでください。そして今回最も言いたいことは、私たちも一粒のままでそれ以上何も生み出さない存在ではなく、死んで多くの実を結ぶことができる存在だということです。私たちは一粒の麦です。しかし、どうか犠牲を恐れず、神様の中で、豊かな実を結ぶいのちの道を選択してください。皆様が豊かな実を結ぶ人生を生きるようになることを願います。


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