20260322日曜韓国語礼拝
聖書:エゼキエル9:3-6
題目:罪を悲しむ者への印
賛美:276、280
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
“ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、 彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。 またわたしの聞いている所で他の者に言われた、「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。 老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。”
エゼキエル書 9:3-6 口語訳
1。イントロ
南極には、何万羽ものペンギンが密集して生活します。見た目はほとんど同じで、私たちには一羽一羽の違いを見分けることはできません。しかし、その中で親ペンギンは、自分の子どもを見失いません。なぜなら、“声”を聞き分けているからです。何千、何万という声が入り混じる中でも、親は自分の子の声を印として正確に聞き分け、そこへまっすぐ向かっていきます。私たちには区別がつかなくても、親には“はっきりとした違い”が分かっているのです。
それでは、神様と私たちはどうでしょうか?神様は、外見ではなく“心”を見ておられます。そしてエゼキエル9章ではこう言われました。『全ての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額に印をつけよ』と。つまり神様は、罪に慣れてしまった人ではなく、罪を見て心を痛める人を見分けておられるのです。そして、その人々に“しるし”をつけ、裁きの中でも守られました。
神様は無差別に裁かれる方ではありません。隅々まで審判を下しますが、混乱の中でも、ご自分の民を確かに見分け、決して見失われない方です。
2。 本文解説(エゼキエル9章)
①裁きの宣言(1–2節)
神様は叫ばれます。「町を罰する者たちよ、滅びの武器をその手に持って来たれ」と。北の門から6人の滅ぼす者と、亜麻布を着た1人が現れます。ここで重要なのは裁きは偶然ではなく、神様の命令によって行われるということです。
また、彼らが「北の門」から来るのは、当時の敵であるバビロンが来る方向です。歴史的にはバビロニア人の軍隊によって滅ぼされるわけですが、霊的には神様の主権による裁きを受けるという隠された真実があるわけです。
② 神の栄光が動く(3節)
神様の栄光がケルビムから離れ、敷居へ移動します。これは何を意味するのでしょうか?神様が神殿を去り始めている、つまり神様の臨在が離れ、裁きが現実になるという事を表しています。神の国の民にとって最大の裁きは「神様が離れること」なのです。
③ しるしをつけよ(4節)
ここが中心です。神は亜麻布の者に命じます。「全ての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」と。亜麻布の者は墨壺を持っており、記録係であることがわかります。神様が記録係の天使に、罪を嘆き悲しむ本当の神の国の民に印をつけるように命じているのです。その印と翻訳されているはヘブライ語のアルファベットの最後の文字であるタウです。現代では漢字の「刀」のように書きますが、エゼキエルの時代には「X」や「+」のように書かれ、未来のキリストを示唆しているという話がありますが、そこまで深く考える必要はありません。ポイントは、救われる条件は、強さでも、地位でも、知識でもなく、罪を見て心を痛めることだということです。
④ 裁きの実行(5–7節)
神様は6人の者たちに命じます。記録係の天使について行って、老若男女構わず、哀れまずに撃て、と。そして「聖所から始めよ」と。最初に倒れるのは太陽崇拝をしていた25人の祭司達でした。裁きは神の家から始まるのです。神様を知らない者ではなく、神様を知っていながら罪に生きる者から裁きが始まるのです。
⑤ エゼキエルの執り成し(8節)
神様は「宮を汚し、死人で庭を満たせ。」と命令しました。そして、壁の中の偶像を崇拝していた70人の長老たちやタンムズ像を崇拝していた女性たちも裁かれ、神殿にはエゼキエル1人だけが残りました。エゼキエルは叫びます。「すべて滅ぼされるのですか?」。ここに預言者の心があります。神様の裁きを理解しているのと同時に、憐れみを求める心です。
⑥ 神の答え(9–10節)
神様は言われました。「イスラエルとユダの罪は非常に大きい。国は血で満ち、町は不義で満ちている」「わたしは顧みない」と。これは非常に冷たい言葉のように聞こえますが、悔い改めを拒み続けた結果であり、同情する余地がありません。
⑦ 完了報告(11節)
亜麻布の者が報告しますと。「あなたがお命じになったように行いました」と。ここからわかるのは、神様の言葉は必ず成就するということです。そして、神様は罪を確実に裁かれるが、同時に罪を悲しむ者を見分け、守られるという事実を教えています。
3。適用
今日の本文から言いたいことは、罪を悲しむ者になりましょう、ということです。
①みなさんは何を悲しんでいますか?
エゼキエル9章で守られたのは罪を犯さなかった人ではなく、罪を嘆いた人でした。私たちは日々いろいろなことで悲しみます。思い通りにいかないこと、自分の人生や環境、人間関係などです。しかし、その多くは自分中心の悲しみです。聖書はこう語ります。
“神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。”
コリント人への第二の手紙 7:10 口語訳
神様が求めておられるのは、自分の思い通りにいかない悲しみではなく、罪に対する悲しみです。それは、この世の罪、人が神様から離れている現実、罪のために死に向かっている人間に対する悲しみです。
イエスは何を悲しまれたでしょうか。ヨハネの福音書11章でラザロが死んで葬られた時、イエスは涙を流されました。それは、自分の計画が崩れたからでもなく、感情的になったからでもありません。罪によって死んでしまったラザロを見て悲しまれたのです。みなさんも、イエスのように、罪に対して悲しむ心を持つ祝福があることを願います。
②みなさんは罪に対してどのように表現していますか?
罪に対する間違った反応が2つあります。一つ目は、何も感じない(無頓着)ことです。これは危険です。罪に慣れている、または心が鈍くなっていることを表しています。意味もなく罪悪感を感じる必要はありませんが、罪悪感を感じなくなるのは、神様から離れている危険な状態を表しています。
二つ目は怒りをぶつけることです。これも問題です。他人の罪に怒ったり、裁いたり、責めたりしています。それは自分が神の座に座る罪を犯している状態です。これはヨブを慰めようとして裁いてしまったヨブの友人たちがしてしまったことです。神様の側に立っているように見えて、自分が神様になっている危険な状態を表しています。
では、正しい反応は何でしょうか?それは悲しみです。自分の罪を悲しみ、隣人の罪を悲しみ、この世の罪を悲しみ、そして罪人を憐れむ心が神様に喜ばれます。このように祈ってください。「主よ、この罪から私を離してください」「主よ、この人を罪から救ってください」と。
またイエスは、たとえ話でこう語られました。
“ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。”
ルカによる福音書 18:13 口語訳
取税人は、自分の罪を見て、自分を正当化せず、神様の前で悲しみました。そして、罪から離れた生活をしているパリサイ人ではなく、罪を悲しむ取税人が義とされたのです。罪を悲しむ心こそ、神様に近い心なのです。
③ 罪を悲しむ心は、しるしである
今日の本文では、罪を嘆く者にしるしがつけられました。それはなぜでしょうか?その人はすでに神様と同じ心を持っているからです。だから、神様は見分けられるのです。神様は見失わないのです。
みなさんは罪を見て悲しんでいますか?イエスのように、罪を悲しむ者になることを願います。神様は完全な人を探しておられるのではありません。罪を軽く見る人ではなく、罪を悲しむ心を持つ人を見ておられるのです。そして、罪を悲しむ心は、すでに神様に触れられている証拠であることを忘れないでください。
4。まとめ
神様は罪を確かに裁かれる聖なるお方です。しかしその裁きの中でも、罪を悲しむ者を見分け、決して見失われません。神様が求めておられるのは、罪のない完全な人ではなく、罪を見て心を痛める人です。自分中心の悲しみではなく、神様の御心に沿った悲しみへと変えられていきましょう。罪に無感覚になるのでもなく、怒りで裁くのでもなく、イエスのように罪を悲しみ、罪人を憐れむ者となりましょう。その心こそが、神に属する「しるし」です。神様はそのしるしを見て、あなたを決して見失われません。


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