20191024早天祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:マルコ11:12-25
題目:イエスは短気?
賛美:262、208
はじめに
学生時代のことです。友達から質問を受けましたが、うまく答えることができませんでした。
ある日曜日、イエス様はエルサレムで歓迎を受け、夜はベタニヤで休まれました。翌月曜日の朝、ベタニヤからエルサレムに向かう途中、お腹が空いておられました。しかし、目の前のイチジクの木には実がなっていませんでした。イエス様は怒り、その木に呪いの言葉をかけ、木は枯れてしまいました。
一見すると、イエス様は短気だったのでしょうか。しかし、この出来事には深い意味があります。
本論
1. イチジクの木について
イチジクの木は、3月に花芽(パーグ)をつけ、4月に葉を茂らせ、5〜6月に実(テエナ)を結びます。収穫の終わりは8月です。
過越の祭りは3〜4月に行われますが、この時期に食べられるのは葉の陰にある花芽です。しかし、この花芽は商品価値がないため、誰でも取って食べることができます。ただし、イチジクの木は4月に花芽がなければ、その年の実を結ぶことはできません。
ここで、イチジクの木はイスラエルの民や神殿の姿を象徴しています。外見は繁栄していても、内面に実を結んでいなければ意味がないのです。「私は主の弟子です」と言葉で表現しながらも、神様の喜ぶ実を結ばない者は、神の目には滅びる者として映ります。イエス様が怒っておられるのは、実がないこと自体ではなく、葉という見せかけだけに対してです。
2. なぜイエス様はパリサイ人に怒ったのか
パリサイ人は外見を飾り、神様に従っているように見せかけていました。しかし内面は神様に向いておらず、自分の正しさを誇っていました。このような見せかけの信仰は、イエス様の怒りの対象となります。
私たち現代のクリスチャンも同じです。マルコは、イエス様が人々のために来られたことを強調していますが、私たちは本当にイエス様のように人に仕えることができているでしょうか。たとえば、ペテロは「足も洗ってください」と言いましたが、イエス様は身をもって仕えられました。
この箇所は、いわゆる「サンドイッチ構造」になっています。イチジクを呪う→神殿を清める→イチジクの枯れ→祈りについて。イエス様は弟子たちに祈ることの重要性を教えておられます。祈りには山をも動かす力があります。しかし、祈らない者や、祈っても信じない者がいます。祈りは、弟子としての姿勢そのものです。
結論
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イチジクの木を呪ったのは、食べられなかったからではありません。弟子たちに教えるためです。
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神様は、努力して実を結べという意味ではなく、見せかけだけの信仰を嫌われます。
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祈る分だけ信じましょう。祈りと信仰は一体であり、神様の力を受けるための基本的な姿勢です。


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