20191030水曜祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:マルコ11:12–14
題目:見せかけの信仰
説教:高曜翰 伝道師
本日、父に続いてこの講壇で説教できることを心から感謝いたします。アンティオケ教会のハヒラ先生にも負けないように、主が与えてくださった御言葉を忠実に語りたいと思います。
1. イチジクの木の話は「短気」ではなく「弟子訓練」
今日開くマルコ11章の「イチジクの木の出来事」は、多くの人が誤解しやすい箇所です。イエス様が腹を立てて、いちじくの木を呪って枯らした…と短絡的に受け取られがちです。しかしこれは、弟子たちに信仰の本質を教えるための「訓練」としてなされた出来事です。
実際に、ある日本人信者の方も、この箇所を読んで「イエス様は短気な方なのですか?」と真剣に質問されたことがありました。しかしイエス様は短気ではありません。出来事の背景を正しく理解する必要があります。
2. イチジクの構造とイエス様が探されたもの
イチジクの木は、「蕾 → 葉 → 実」という順番で成長します。葉が茂っているなら、そこには通常“蕾”があるはずなのです。
イエス様が探していたのは、季節外れの実ではなく、本来あるべき“蕾”でした。
冬にスイカを探すような無茶をされたわけではありません。
葉が多く茂っているなら、蕾があるのが当然。しかしその木には、見た目にふさわしい中身がなかったのです。
3. イチジクの木の意味
聖書の中でイチジクの木はしばしば「イスラエルの民」を象徴します。
葉は見た目の立派さ、蕾は信仰から生まれる本当の実りを表します。
外側だけは立派に見える。しかし、内側には信仰から来る実がまったくない。
イエス様はそこを指摘されたのです。
4. 広告と中身のギャップ
これを現代に置き換えれば、「広告は立派なのに、中身が伴わない」という状態です。
外側だけ飾って実態を隠すような信仰生活は、主が最も悲しまれるものです。
5. 神殿で起こっていたこと
続く場面で、イエス様は神殿に入って鳩を売る者、両替商、そして運送業者に対して厳しく行動されます。
外側は立派な神殿であっても、中では詐欺まがいの取引が横行していました。
これは、世間的な成功を追い求めるあまり、信仰の中身を失っていく信者たちにも通じます。
6. 私たちの内側を問われる
御霊の実があるかどうか――これは、信仰者の中身を確かめる基準です。
私自身、姉との喧嘩を通して、怒りや自己中心が心を占めると御霊の実が失われることを痛感しました。
また、熱心でありながらも偶像に心を奪われてしまった執事さんの姿から、内側の状態がどれほど信仰生活を左右するかを思い知らされました。
7. 結論
外側を飾って「よく見せよう」とするのではなく、主の前にありのままの自分を差し出しましょう。
そして、御霊の実を実らせているか、失ってはいないか、自らを振り返り続ける者でありたいと思います。
主が私たちの内側を整え、真実な実りを結ばせてくださいますように。


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