20200131早天祈祷会 in Jesus Love Church
マタイ21:28–32「二人の息子と心の向き」
イエス様は、一つの例え話を語られました。
ある父が二人の息子に、「今日、ぶどう園で働いてくれ」と頼みました。
兄は「はい、行きます」と言いましたが、実際には行きませんでした。
一方、弟は「行きたくありません」と拒んだものの、あとで思い直して行きました。
では、父の心にかなったのはどちらでしょうか。
答えは弟です。
■ 兄と弟の違いは「行動」よりも「心」
この例え話は、
「行きたいのに行けなかった兄」と
「行きたくないけど無理やり行った弟」の話ではありません。
行く気などまったくないのに口先だけでよく見せようとした兄と、父の気持ちを考えて心を変えた弟の話です。
兄は、「自分は正しく生きている」と思い込んでいるパリサイ人の姿です。
弟は、自分の罪を認め、心を変えようとする取税人や遊女の姿です。
神様が求めておられるのは、
『自分は正しい』という確信ではなく、
父の御心を探り、自分の心を変えようとする姿勢です。
この姿勢こそが、義の道を歩む人生につながります。
パリサイ人は心の高ぶりのゆえに、ヨハネもイエスも認めませんでした。
しかし、自分の罪を悟り、「変わりたい」と願った取税人と遊女は、ヨハネもイエスも受け入れました。
最終的に主が見られるのは、外側ではなく内側の心です。
■ 外側と内側:人間の感情か、聖霊の働きか
ある神学者は、この例え話を
「人間の感情に従う兄」と
「聖霊の働きに従う弟」
という観点で解釈しました。
兄は、感情に任せ、外側だけを整えようとする姿です。
例えば、服を裂いて悲しむふりはするが、心を裂く(悔い改める)ことはしない人の姿です。
神様は外側の行動ではなく、
**「あなたの心そのもの」**を求めています。
多く奉仕をしても、主の心を理解しようとしない人がいます。
神学を学んでも、十字架の痛みを共に感じようとしない人もいます。
(例:ジェイムス・コーン牧師の語る、リンチされた黒人たちの木を見て十字架のイエスを思い起こすことができるか。キング牧師はそれをしたが、ラインホールド・ニーバーはそこに踏み込めなかった。)
私たちの心にも同じ傾向がないでしょうか。
■ 自分の心を確かめる
隣人が苦しんでいるとき、悲しむふりをして心の中で喜んでいないか?
誰かが失敗すると、心のどこかで優越感を感じていないか?
白人が黒人を迫害しながら満足感を覚えた歴史も、その心の問題からきています。
身近な例でも、
「姉に勝つと気分が良い」
「母の戒めには従うけれど、自分は謝らない」
など、
私たちの中には「間違った感情に従う心」が潜んでいます。
大切なのは、
その心を裂き、聖霊の導きに従うことです。
■ 結論:神が見られるのは外側ではなく、内側
神様は、外側ではなく内側をご覧になります。
兄の姿は、感情に動かされ、外側の服だけを裂く人。
弟の姿は、聖霊に従い、内側の心を裂く人。
私たちは、感情に支配された信仰ではなく、
内側から変えられる霊的な信仰を求めて歩みましょう。


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