20200124早天祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:マタイ15:1-20
題目:「手を洗う」ということ
賛美:436
説教:高曜翰 伝道師
マタイ15:1–20「手を洗う」ということ
当時、食事の時に手を洗う習慣には、私たちが考える「衛生的な意味」がありました。食中毒にならないための行為です。戦前の生活環境は不衛生で、薬も十分ではなかったため、人々はよく手を洗っていました。しかし現代は衛生状態も良く、薬も発達しているため、人々はかえって手洗いへの意識が薄くなりつつあります。
聖書においても、レビ記15:11には、病気の人は手を洗い、伝染を防ぐようにと命じられています。ところが新約時代になると、「手を洗うこと」が本来の意味から離れ、自分は潔白だというパフォーマンスとして用いられることもありました。その代表的な例がピラトです。
ユダヤの長老たちの言い伝えでは、水で肘まで洗うことで「汚れを洗い落とす」という律法がありましたが、これは出エジプト記30:18–21の祭司の洗いの規定を拡大解釈したものです。本来、手を洗う行為は「清め」そのものよりも、日々の生活の中で私たちが罪によって汚れていることを自覚するためのものでした。しかしパリサイ人たちは、むしろ「自分は清い存在だ」と主張するために用いてしまいました。
また彼らは、「財産を父母にではなく神に捧げる」と言えば親の世話をしなくてもよい、という言い伝えを利用しました。これは、神を言い訳にして自分の財産を守るためのものでした。
パリサイ人の誤りは、律法を守っているのだから神を心から愛さなくてもよいという態度でした。一方、現代人の誤りは逆で、神を愛しているのだから律法を守らなくてもよいという姿勢に表れます。
しかし聖書が示す正しい信仰者の姿はこうです。
「神を愛しているからこそ律法を守る」(ヨハネ14:15)
律法は本来、自分の罪を自覚させるためのものです。しかし律法が儀式化し、形だけのものとなる時、人はかえって罪への自覚を失います。問題は律法そのものではなく、言い伝えや形式に縛られて本質を見失うことにあります。
イエスはイザヤ書を引用して言われました。
「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタイ15:8)
私たちも、礼拝、賛美、祈り、洗礼式、聖餐式などを行うとき、自分の心が主に向いているかどうか、常に確かめる必要があります。また他人を判断するときも、一時的な結果だけを見て判断してはいけません。
マタイ14章:バプテスマのヨハネについて
同じ文脈で、私たちはマタイ14章のバプテスマのヨハネにも目を向けることができます。ダニエルは獅子の穴から救われましたが、ヨハネは救われることなく殉教の死を迎えました。
ヨハネの最後の心境はどのようなものだったのでしょうか。
彼もイエスに失望した時がありました。彼はイエスをメシアとして迎えましたが、人々が期待する「スーパーヒーロー」のようなメシア像とは異なり、イエスは「大食いの酒飲み」と言われるほど人々の偏見にさらされました。
ヨハネもまた、神の声ではなく、世の中の雑音に心を奪われたのです。
しかし最終的にヨハネは、自分の使命を果たし、神の働きのために生きた人生を振り返り、主に対して「自分は正しい道を歩んだ」と確信していたのではないでしょうか。
私たちが神に失望する時、それは神が間違っているのではなく、私たちの中にある誤った価値観が砕かれていないからです。
そのため、私たちは自分の心に潜むバアルの偶像を砕き、主に心を向け続ける必要があります。


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