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パリサイ人の義(マタイ 5:17–20)
고요한 2025-11-14 추천 0 댓글 0 조회 31

 

20200110早天祈祷会 in Jesus Love Church

聖書:マタイ 5:17–20

賛美歌:176、430

説教:高曜翰 伝道師

 

今日の御言葉は、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければ、天の御国に入れない」という、非常に厳しいイエス様の宣言です。

今でこそパリサイ人と言えば「偽善者」というイメージが強いですが、当時の人々にとってパリサイ人とは、誰よりも真剣に神を恐れ、律法を守る模範的な存在でした。では、イエス様はなぜ彼ら以上の義を求められたのでしょうか。


1.パリサイ人の義とは何か

ここには二つの意味があります。

① 人間の義(行いによる義)

パリサイ人は、誰よりも勤勉で、厳格に律法を守り、断食し、祈り、賛美し、膨大な聖書の知識を持っていました。しかし、その行いは表面的で、心が伴っていませんでした。

ヤコブ2:8–11には、一つでも律法を犯せば全体に違反したのと同じだとあります。隣人を愛せよと言われても、偏りを持つなら律法違反者です。
では、人は誰が完全に律法を守り通せるでしょうか。

聖書は言います。

  • 「律法によって義とされる者はいない」(ローマ3:20)
    律法は私たちの罪を照らし出す鏡であって、私たちを義にする力はありません。
    「むさぼるな」と言われても、私たちの内にある罪が私たちをむさぼらせてしまうのです。

② メシアの義(信仰による義)

しかし同時に、パウロは宣言します。

  • 「今や律法とは別に、神の義が示された」(ローマ3:21–22)

律法を完全に成し遂げたキリストを通して、私たちは信仰により義とされます。
これが イエス様の義、つまり「信仰による義」です。


2.自分の中にあった“パリサイ人の義”

私自身、かつてはパリサイ人のような生活をしていました。
偽物ブランドの仕事をする人、ノンクリスチャンと結婚する女性たちを見て、哀れむのではなく、どこかで見下していました。

しかし、牧師になる決心をして、良い暮らしを捨て、英語の勉強に苦しんだとき、自分の中の「自分中心の信仰」に気づかされました。
心が神様と一致していないまま、「行い」だけを積み上げようとしていたのです。

神様が求めておられるのは、外側だけの行いではなく、
「私は罪人であり、イエス・キリストを必要としています」という謙虚な心 です。


3.結論

どれほど立派な行いを積み重ねても、それだけでは天の御国に入る義には届きません。
私たちを義とするのは イエス・キリストの十字架 であり、信仰によって与えられる義です。

小さな行動であっても、
心が伴った行動 をする者を、神様は喜んで受け入れてくださいます。

律法を破壊したのはイエス様ではありません。
むしろ、律法を形だけにしてしまったパリサイ人の側でした。
律法は私たちをキリストへ導く家庭教師にすぎません。

私たちが自分の行いを誇り始めるとき、
それは神の言葉を壊すパリサイ人の道を歩むことになります。

どうか、自分の努力ではなく、キリストの義により頼み、

心から神に向く歩みを続けていきましょう。 

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