20200306早天祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:ルカ 2:1-35
題目:イエスに気付けるか?
賛美:91番
説教:高曜翰 伝道師
「この時代にイエス様が生まれていたら、私たちは救い主だと気づくだろうか?」
もしイエス様が現代に生まれておられたら、私たちはその方を救い主だと気づくことができたでしょうか。
イエス様の誕生は、私たちが期待する華やかさや特別な背景とはまったく異なるものでした。
素晴らしい血筋の家からでもなく、評判の良くない町ナザレの大工ヨセフを父とし、結婚前に身ごもったマリアを母として生まれました。
また誕生の場所も、王宮や高級な宿ではなく、うんこの匂いさえ漂う家畜小屋でした。
しかも時期は、住民登録のために移動しなければならない、忙しく不便なタイミングでした。
誕生を知らされたのも、社会的に低く見られていた羊飼いたち。
名付け親は天使でした。
さらに、シメオンという老人はイエスを見てこう預言しています。
「この子のゆえに多くのイスラエル人が倒れ、また立ち上がる。」
バプテスマのヨハネが祭司の家系に生まれ、人々から期待されたのとは対照的に、イエス様の生い立ちは人間的に見ると「救い主らしくない」と言えるものでした。
もしマリアが私たちの身近な人──例えばイェナさんのような存在──だったらどうでしょうか。
「婚約前に妊娠した」「家畜小屋で出産した」
そう聞いて、私たちは果たしてそこに神の御業を見いだすことができるでしょうか。
■ イエス様に気づく者と気づかない者の違い
ユダヤ人の中でも、イエス様を救い主と認めた人と、そうでない人がいました。その違いはどこにあったのでしょう。
シメオンは「イスラエルの慰めを待ち望んでいた」とあります。
つまり、霊的な目が開かれていたのです。
一方、他の多くのユダヤ人は「ローマから力で解放してくれる王」としてのメシアを期待していました。
そのため、貧しく、小さく、弱い姿で来られたイエスを受け入れられなかったのです。
2コリント8:9にはこう書かれています。
「主イエス・キリストの恵みをあなたがたは知っています。主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたがその貧しさによって富むものとなるためです。」
私たちは困った時、自分を助けてくれそうな「金持ち」「医者」「弁護士」「地位ある人」「能力のある人」を探し求めます。
しかし、私たちを救うために最も貧しい姿を選ばれたイエス様を、しばしば忘れてしまいます。
貧しい人を見る時、マタイ25:40の御言葉を思い出す必要があります。
「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである。」
もちろん罪を犯した人は償う必要があります。
しかし、私たちは聖霊に満たされ、彼らを導く者として召されています。
「自分自身で精一杯で、他の人を助ける余裕なんてない」と思うこともあるでしょう。
しかしイエス様ほど悲惨な環境で生まれ、生きられた方はいません。
■ 経験を通して知る
この夏、ハイチに行く予定があります。
そこで、目だけでなく、耳で聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、口で味わい、肌で感じる──
五感を通して「どのような場所で人々が生きているのか」を体験したいと思っています。
その経験は、イエス様がどれほど貧しい環境の中で生まれたのかを理解する助けとなるでしょう。
■ 結論
私たちが知るべきなのは、イエス様の誕生の「素晴らしさ」だけではありません。
むしろ、その「悲惨さ」を通して、神様がどれほど深い愛をもって私たちのために働いてくださったかを知ることです。
貧しさの中に来られたイエス様を見上げ、その愛に気づく霊的な目を、私たち一人ひとりが持つことができますように。


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