20200313早天祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:ルカ 7:36–50
題目:高慢な罪人と謙虚な罪人
賛美:259番
説教:高曜翰 伝道師
当時、ラビを誰かの家に招待することはごく普通の習慣でした。
シモンもイエスを自分の家に招待しましたが、その態度は非常に失礼なものでした。
シモンはイエスを「先生」と呼びながらも、客人に当然すべきことを何一つ行いませんでした。
足を洗う水もタオルも召使いも用意せず、挨拶のキスもせず、頭に油を塗ることもしませんでした。
つまり、彼は表面的には「清い身分」の側に立っていましたが、心には愛がありませんでした。
■ 一方、この女の行動
その場に入って来たひとりの女は、シモンとはまったく違いました。
当時、貧しい人が施しを受けるために家に招かれていなくても中に入って来ることは普通にありました。
彼女はイエスの足もとに来て、涙でその足を洗い、自分の髪で汚れを拭い、くちづけし、高価な香油を塗りました。
彼女は「汚れた身分」に属していましたが、心には深い愛がありました。
涙がすぐに流れるものだろうか、と疑問に思うかもしれません。
おそらく彼女は、イエスの汚れたままの足を見て心を痛めたのでしょう。
髪を解いて男性の前にさらすことは、当時の女性にとって自分の誇りを投げ出す行為でした。
通常、髪は夫以外の男性に見せないものであり、髪は女性のプライドそのものでした。
しかし彼女は、自分のプライドを捨ててイエスへの敬意を示したのです。
また、彼女は頬ではなく足にキスしました。
それは身分の高い人に対して行う敬意の表現でした。
さらに使ったのは家庭用の安いオリーブ油ではなく、高価で特別な香油でした。
彼女は頭まで手を伸ばすことができないほど低くひれ伏していたため、足に香油を注いだのです。
■ シモンの問題
シモンは、自分がしなかったことをこの女性がしているのをただ座ったまま見て、彼女を軽蔑していました。
そしてイエスを「偽預言者」と心の中で判断しました。
イエスは言われます。
47節
「この女の罪が多く赦されている。それは、彼女が多く愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
ここで誤解してはいけません。
「彼女が多く愛したから多く赦された」のではありません。
多く赦されたからこそ、その感謝の結果として、彼女は多くを愛することができたのです。
彼女の愛は赦された証拠でした。
しかし、本当に罪が赦されるには、自分の罪の大きさを知る必要があります。
イエスのたとえ話にある「50デナリ」と「500デナリ」。
500デナリは一般人には返済不可能な額でした。
シモンは清らかな環境の中にいながら、汚れを遠ざけ、イエスを疑い、認めませんでした。
つまり、自分の罪の重さや神の赦しの必要性を理解していなかったのです。
一方、この女は汚れた生活の中にいながら、イエスを神として認めました。
自分の罪の重さを知り、神の赦しを必要としていたのです。
■ イエスの評価は、世間とは逆
人々の視点とは反対に、イエスの評価はこうでした。
-
シモン:高慢な罪人。他人を赦せず愛せない人。
-
この女:謙虚な罪人。他人を赦し、愛することができる人。
私自身も、自分の罪を思い起こさせられます。
日曜学校の教師でありながら、子どもたちに御言葉をしっかり教えられなかったこと。
父親や教会から受けた傷ばかりを見て、悪い影響を子どもたちに与えてしまったこと。
怒りに任せて叱ってしまったこと。
自分の態度の罪深さに気づけなかったこと。
これが、私の罪でした。
■ 結論
多くを愛することができる人とは、
清く生活している人でも、罪が少ない人でもありません。
自分の罪の大きさに気づくことができる人です。
自分の罪がどれほど深いかを知り、
イエス様の赦しがどれほど大きいかを悟ったとき、
私たちは愛にあふれる者へと変えられます。
愛があふれる人は、
喜んで祈り、
喜んで教会に行き、喜んで伝道する人になります。


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