20210806家庭礼拝
聖書:民数記11:23–25
題目:「解決」が重要なのではない
賛美:310
説教:高曜翰 伝道師
導入
人はなぜ憤るのでしょうか。
それは、自分の理想と現実の間に大きなギャップがあるためです。
たとえば、うまくいかない結婚生活の問題などがその典型です。
「こうあるべき」という理想が崩れると、人は簡単に怒り、嘆き、不満を言い始めます。
1.物語の流れ
民数記11章では、まず異邦人の集団がつぶやき始め(11:4)、それがイスラエル全体にも広がりました。
彼らはマナに飽き、
**「肉が食べたい!」**と泣き叫ぶようになりました。
それを聞いたモーセは、大きな重荷に押し潰されそうになります。
成人男子だけで60万人。
その全員に肉を1ヶ月も食べさせることは、どう考えても不可能でした。
しかし神様は言われました。
「わたしの手が短いとでも言うのか」(23節)
そして「1ヶ月間肉を与える」と約束されます。
2.まず与えられたのは“肉”ではなく“聖霊”
注目すべきは、神様が最初に与えたのは60万人分の肉ではなく、70人の長老への聖霊であったという点です(24–25節)。
聖霊を受けた長老たちは変わり、預言をしました。
モーセも言います。
「主の民がみな預言者となることを、わたしは願う」(29節)
これは、モーセ自身の態度が変えられたことを示します。
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「自分がこの民をどうにかしなければ」という思い
↓ -
**「神がなさる」**という信仰へ
重荷が軽くなっただけでなく、モーセの視点そのものが変わったのです。
3.その後に肉が与えられたが…
聖霊による変化の後、神様はうずらを与えられました。
しかし、人々はむさぼるように食べ、その結果、疫病で多くが命を落としました(33節)。
不平不満を言って手に入れたものは、
本当に私たちを幸せにするでしょうか?
まるで、駄々をこねて泣き喚く子どもにお菓子を与えるようなものです。
一見満足したように見えても、実は害となることがあります。
4.神様が望んでいることは「問題解決」ではない
私たちが望むものと、神様が与えたいものはしばしば違います。
神様は必ずしも
「問題がすぐに解決すること」
を最優先にされるわけではありません。
それよりも、
問題を通して、私たち自身が変えられること
を望んでおられます。
結論
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現実を見ると、カナンの地に入れないように見える。
しかし、約束の地に入れるのは自分の力ではなく、神様の働きによる。 -
人や環境に対する不平不満は、神様に対する不満と同じ。
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肉の欲望を満たすために不満を言うのではなく、
聖霊を求めるべきである。


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