20230402青年部礼拝
聖書:列王記上18:28–29, 37–38
題目:火で答えてくださる神様
賛美:What a Beautiful Name
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
はじめに(主題)
この世の神々は、どれほど魅力的に見えたとしても、私たちに努力と犠牲を要求するだけで、最終的には私たちを空しさや死へと追い詰めます。そして決して答えてはくれません。
しかし、私たちの神様は違います。どんなに悪く見える状況の中にあっても、恵みを与え、命を与えてくださるお方です。神様以上に、私たちのために犠牲を払った方はこの世に存在しません。そして神様は、必ず答えてくださいます。
努力と犠牲だけを要求し、答えないこの世の神々を捨てて、私たちのために犠牲を払い、確かに答えてくださる神様に従っていきましょう。
聖書朗読(列王記上18章28–29節、37–38節)
彼らは大声で叫び、自分たちのしきたりに従って、血が流れるまで剣や槍で自分の身を傷つけました。しかし、正午が過ぎ、夕のささげ物を献げる時になっても、声はなく、答える者も、顧みる者も一人もいませんでした。
その時、エリヤは祈りました。
「主よ、私に答えてください。私に答えてください。この民が、主こそ神であること、また、あなたが彼らの心を元に戻される方であることを知るためです。」
すると、主の火が下り、全焼のいけにえも、たきぎも、石も、土も焼き尽くし、溝の水までなめ尽くしました。
1.アイドルおたくの人生(14年間で2000万円をAKBに注ぎ込んだ男性)
ある男性の人生を考えてみましょう。
彼は、不幸だと感じていた人生の中で、ある日アイドルと出会いました。その出会いは、彼の人生に光が差し込んだように感じられました。
彼はアイドルのために、多くのお金と時間、そして労力を注ぎ込みました。使えば使うほど、努力すればするほど、何かしらの「答え」が返ってくるように感じ、幸せを得ていると思っていました。
しかし、やがて別れの時が来ます。アイドルが他の人と結ばれ、引退する時、彼は我に返ります。それまでの努力や犠牲、手に入れたと思っていたものが、すべて無意味に感じられました。
そして、自分が失ってきたものの大きさに気づき、深い失望を覚えます。自分は本気で愛していたのに、相手はそうではありませんでした。答えがあるように見えて、実は何もなかったのです。
2.アハブとエリヤ
アハブ王は、イゼベルとの政略結婚によって、イスラエルにバアル信仰を持ち込みました。
彼は父オムリと共に、イスラエルを経済的、軍事的、政治的、国際的に安定させました。その繁栄は、まるでバアル信仰の結果のように見えました。
一方、エリヤは、神の言葉によって三年間、雨が降らないようにしました。その結果、食糧不足、物価上昇、経済崩壊、治安悪化、軍事力低下、国際的地位の低下が起こります。人々の目には、イスラエルの神、そしてエリヤこそが問題の原因に見えました。
この三年間、人々はエリヤを見つけて殺そうとしましたが、見つけることはできませんでした。
エリヤ自身は、様々な経験を通して神様の偉大さをより深く知るようになります。一方アハブは、自分に原因があることを悟らず、国民の苦しみよりも、自分の馬の心配をしていました。
やがて、オバデヤを通して、アハブとエリヤは再会します。オバデヤは、アハブに仕えながらも、100人の預言者をかくまっていた人物です。
国家的危機の原因は、アハブなのか、それともエリヤなのか。その答えを明らかにするため、カルメル山で、どちらが本当の神であるかを決めることになりました。
3.カルメル山での戦い
エリヤはイスラエルの民に問いかけました。
「いつまで二つの間で迷っているのか。」
民は何も答えませんでした。彼らはイスラエルの神を否定してはいませんでしたが、富をもたらしたバアルの神も捨てきれなかったのです。
そして、バアルに有利な条件がそろった時、民は「それがよかろう」と同意しました。
戦いの場所はバアルの本拠地。
バアルの預言者450人とアシラの預言者400人に対して、イスラエルの神の預言者はエリヤ一人。
勝敗は、生贄に火がついた方が勝ちという条件でした。しかも、バアルは火を司る神とされていました。
結果は明らかでした。
バアルの預言者たちは、朝から昼まで約6時間叫び、自らを傷つけましたが、乾いた生贄にさえ火はつきませんでした。
一方エリヤは、わずか30秒ほど祈っただけで、15リットル以上の水で濡らされた生贄も、木も、石も、水溜りまでも焼き尽くしました。
わざわざ火がつかない状況にしても、主の力は圧倒的でした。
その後、イスラエルの民はひれ伏し、「主こそ神である」と告白しました。偽預言者たちはモーセの律法に従って処刑され、やがて雨が降りました。
火も水も、すべてが主なる神に属していることを、民は知ったのです。
4.バアルの預言者たちの姿
この世の人々の目には、聖徒たちはまるでアイドルおたくのように映るかもしれません。
教会に多くのお金と時間、労力を使い、自分の自由が奪われている、だまされているのではないかと思われるかもしれません。
しかし、神様の視点から見ると、この世の人々もまた、幸せを求めて、仕事、勉強、趣味、結婚、出産などに、お金と時間と労力を注いでいます。
けれども、それらは本当の答えを与えてはくれません。思ったほどの幸せを得られていないのが現実です。なぜなら、それらは私たちを愛してはいないからです。
聖書は、この世の現実をはっきりと語ります。
悪魔はこの世の支配者であり、獲物を探して歩き回っています。そこに愛はありません。
時代ごとに、悪魔は姿を変えてきました。旧約時代は多くの神々を、新約時代は「富」を、そして現代では「自分自身が神になる」という考えを広めています。
その結果、人は自由になったように見えて、実は自分を生贄としてこの世に捧げています。浪費した分と得られる見返りは釣り合わず、最後には能力不足だと切り捨てられるのです。
5.私たちのために犠牲を払う神様
聖餐式は、新しい契約を思い出すための儀式です。
罪ある私たちのために、罪なきイエス・キリストが自らを犠牲にされました。その死は神の計画であり、そこには深い愛が現されています。
イエス・キリストを信じたからといって、すべてが思い通りになるわけではありません。
しかし、そこには確かに十字架の愛があります。悪魔とはまったく違います。
イエス・キリストを受け入れる時、私たちは聖霊の火を受け取ります。そこには、確かな答えがあるのです。
6.まとめ
人間は幸せを求める存在です。そのために、お金と時間と労力を使い、自分自身を犠牲にします。
答えがあれば、そこに意味を見いだし、幸せを感じます。しかし、愛がなければ、その答えは私たちを満たすことはできません。
神様以上に、私たちを愛している存在はありません。
あなたが犠牲を捧げている対象は、あなたを愛していますか。
答えがあったとしても、悪魔の支配下にあるものは偽りの神であり、私たちを愛してはいません。
愛をもって答えてくださる神様のために生きること。
それこそが、永遠の幸せへと至る唯一の道なのです。


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