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神の思いを考える人になろう(創世記37:23-28)
고요한 2025-12-25 추천 0 댓글 0 조회 14

 

20230424早天祈祷会

聖句:創世記37:23-28
題目:神の思いを考える人になろう
賛美:369

説教:高曜翰 副牧師

場所:중앙성서교회


はじめに

私たちは人生の中で、「なぜこんなことが起こるのか」「神様はなぜ助けてくださらないのか」と思う出来事に何度も直面します。今日の箇所に登場するヨセフも、まさにそのような状況に置かれました。しかし、ヨセフの人生を通して見えてくるのは、人間の思いと神様の思いの大きな違いです。今日はこの箇所から、「神の思いを考える人になる」とはどういうことかを学びたいと思います。


1.本文解説

23節:ヨセフの着物を剥ぎ取った理由

ヨセフが兄たちのもとに来ると、兄たちはヨセフが着ていた長袖の着物、すなわち彩色の服を剥ぎ取りました。この行動には、深い憎しみが込められていました。

まず、父ヤコブの愛を独り占めしているヨセフへの嫉妬です。長袖の着物は、本来、長子や後継者に着せる服であり、父の特別な愛の象徴でした。次に、ヨセフが事実をありのまま報告する正直さを持っていたことも、兄たちには憎しみの対象でした。さらに、自分たちがヨセフに仕えるという夢を見たことが、兄たちの怒りを決定的なものにしました。

兄たちは、ヨセフと穏やかに話すことすらできないほど彼を憎んでいました。確かにヨセフにも未熟な点はありましたが、兄たちにも大きな問題がありました。それにもかかわらず、兄たちはすべての責任をヨセフ一人に押し付けていました。これは、傷を抱えたこの世の人々の姿でもあります。彼らは自分の「王座」から降りようとしないのです。


24節:水のない穴に投げ入れられるヨセフ

兄たちはヨセフを捕らえ、水のない穴に投げ入れました。彼らは最初からヨセフを殺そうとしていました。その最大の動機は、「自分たちがヨセフに仕える存在になる」という未来をどうしても受け入れられなかったことです。ヨセフさえいなくなれば、平穏が訪れると本気で考えていました。

ここで登場するのが長男ルウベンです。彼は「血を流してはならない」と言い、後でヨセフを救い出そうと考えていました。しかし、その動機が責任回避から来たものなのか、弟への思いやりなのかは分かりません。ただ一つ確かなことは、ルウベンは長男として、弟たちを強く止めるべき立場にあったということです。父のそばめビルハとの事件によって立場が弱くなっていた可能性も考えられます。

一方、ヨセフは助けを求めて叫びましたが、兄たちはそれを無視しました。ヨセフは、兄たちの憎しみがここまで深いとは予想していなかったのかもしれません。


25節:パンを食べる兄たちと隊商の到来

兄たちは座ってパンを食べていました。これは、ヨセフの命に対して何のためらいもなかったことを示しています。ヨセフは死んでも仕方がない存在だと考え、彼がいなくなることで平穏が訪れると錯覚していたのかもしれません。

その時、ギルアデからエジプトへ向かうイスマエル人の隊商が通りかかります。香料、乳香、没薬はエジプトでは育たないもので、ギルアデで仕入れてエジプトで売る交易品でした。


26〜27節:ユダの提案

ユダは「弟を殺して血を隠しても、何の益があるだろうか」と言い、ヨセフをイスマエル人に売ることを提案します。これは一見、合理的な提案でした。ユダヤの伝承では、兄たちがそのお金で靴を買ったとも言われています。そこには、自分たちの罪に対する意識はほとんどありませんでした。「自分を苦しめる人間は、いなくなってもいい」という冷酷な考えがあったのです。

ユダには兄弟たちを説得する力があり、兄弟たちは良心の呵責もあって、その提案を受け入れました。こうして、ヨセフの夢を妨害するという最初の目的は達成されたように見えました。


28節:ヨセフは売られる

通りかかったミディアン人の商人たちによって、ヨセフは穴から引き上げられ、銀20シケルでイスマエル人に売られました。イスマエル人とミディアン人はほぼ同義語として用いられることもあり、両者の混血関係や、奴隷取引を専門とする集団が存在していた可能性も考えられます。


2.ここから分かること

ヨセフは兄たちによって殺されかけましたが、最終的には奴隷として売られるという結果になりました。最悪の結果は免れましたが、決して最善の結果ではありませんでした。

では、なぜ神様はヨセフを完全に助けなかったのでしょうか。確かに神様はヨセフの命を守られました。しかし、ルウベンが救い出そうとした計画は実現しませんでした。むしろ、ユダの計画が成功することを、神様は許可されたように見えます。

そこには、私たちには理解できない神様の計画があります。神様はそのすべてを説明してはくださりません。しかし、それでも従順に従うこと、それが信仰です。

ヨセフは、奴隷として連れて行かれる時、多く嘆いたかもしれません。しかしエジプトに着いてからは、神の民として誠実に生きました。兄たちのせいにして自暴自棄になることはありませんでした。神様の前で正しいことを行い続けた結果、奴隷から大臣にまで引き上げられました。ヨセフには平安がありました。

一方ユダは、「ヨセフさえいなくなれば」と願い、その通りになりました。しかし、心の中に平安はありませんでした。彼は兄弟たちから離れ、後に「私たちは弟のことで罪がある」と告白し、ついには「私をベニヤミンの代わりに奴隷にしてください」と言うまでになります。ヨセフを失った時の父ヤコブの姿が、彼の心から離れなかったのです。


3.教会にいる「嫌な人」

私たちも教会の中で、「この人さえいなければ」と思うことがあります。しかし、その人がいなくなっても、平安は訪れません。もしかすると、その人こそ神様の計画の中にいる「ヨセフ」のような存在かもしれません。私たちは自分の考えではなく、神様の計画を考える必要があります。

ヨセフは、奴隷の時も、囚人の時も、大臣の時も態度が変わりませんでした。神様と父に愛されている存在であることを知っていたからです。人ではなく神様を見ていたので、平安がありました。10代で誘惑を受け、20代を牢獄で過ごしても、その姿勢は変わりませんでした。


4.イエス様の言葉

イエス様は「あなたがたは地の塩である」と言われました。私たちは、何かを成し遂げなくても、すでに地の塩です。しかし、神様に用いられなければ、その価値は発揮されません。まず、自分の存在価値を認める必要があります。

それは、ただのペンが、大統領が使う世界に10本しかないペンになるようなものです。

ヨセフのように神様だけを見る人には平安があります。しかし、人ばかりを見る人には不安があります。私たちは人の視線ではなく、神様の視線を気にして生きるべきです。


5.まとめ

ヨセフは多くの不幸な出来事に遭いましたが、常に平安の中にいました。それは、人を見ず、神様を見ていたからです。これは、人を無視しろという意味ではありません。

一方、ユダは自分の願いが叶いました。しかし平安は得られませんでした。願いが叶っても、憎い人がいなくなっても、平安が訪れるとは限らないのです。

最も大切なのは、私たちが「神様だけを見て生きる存在」であると知ることです。ヨセフが平安でいられたのは、神様と父に愛されていることを知っていたからです。私たちもその愛を知り、神様だけを見つめて生きる者になりましょう。​ 

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