20230428金曜祈祷会
聖書:列王記上20:42-43
題目:何を見て生きるのか?
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
私たちは人生の中で、同じ出来事を経験しても、まったく違う受け取り方をすることがあります。
今日は「何を見て生きるのか」というテーマで、エリヤとアハブの姿から、私たちの信仰の姿勢を学びたいと思います。
1.靴屋の話
あるアメリカの会社が、アフリカへ市場調査のために二人の調査員を派遣しました。
派遣先に着くと、そこでは誰も靴を履いていませんでした。
一人の調査員はそれを見て絶望し、「ここでは靴は売れません。商売になりません」と報告しました。
しかし、もう一人の調査員は喜び、「ここには大きな市場があります。誰も靴を履いていないのですから」と報告しました。
同じ光景を見ても、見方によって受け取り方はこれほど違います。
私たちは、何を見て生きているのでしょうか。
2.エリヤの絶望
エリヤはカルメル山で大きな戦いを経験しました。しかし、彼が期待していたような「目に見える結果」は得られませんでした。
その後、イゼベルを恐れて国外へ逃亡し、ホレブ山に身を隠します。
彼は生きる気力を失い、命の危機に陥りました。
その時、神様はエリヤに働かれました。
岩を砕くような強風、地震、火が起こりましたが、主はそこにはおられませんでした。
そして、静かなか細い声で語りかけられました。
これは、見た目の派手さや力強さの中に神様の御心があるのではなく、静寂の中にこそ大切な主の思いがあることを示しています。
神様はエリヤの間違った考えを正されました。
さらに、ハザエル、エヒウ、エリシャに油を注ぐという新しい使命を与え、失望感を癒されました。
そして、自分ひとりではないこと、七千人の仲間がいることを知らせ、孤独感も癒されました。
こうしてエリヤは、再び神様のために立ち上がる者となったのです。
3.アハブの絶望
一方、アハブもまた絶望的な状況にありました。
カルメル山の出来事の後でも、彼は主なる神様を見ようとしませんでした。
ダマスコの王ベネ・ハダデが三十二人の王と共に、首都サマリヤを包囲します。
最初は「金銀と最も美しい妻子を差し出せ」と要求し、次には「すべての妻子と財産をよこせ」と要求しました。
長老たちと相談した結果、アハブは要求を拒否し、全面戦争の道を選びました。
しかし国力は十分に回復しておらず、圧倒的な戦力差がありました。まさに命の危機でした。
その時、神様は一人の預言者をアハブのもとに遣わし、勝利を約束されました。
聞き従った結果、七千人の民兵が集まり、ベネ・ハダデを退けることができました。
翌年、十三万人近い歩兵を率いて再び攻めてきたベネ・ハダデにも、神様は勝利を与えられました。
神様は奇跡によって、アハブの命を確かに救われたのです。
4.アハブの失敗
エリヤもアハブも、共に命を救われました。
しかし、その後の態度はまったく違いました。
エリヤは主に立ち返りましたが、アハブは立ち返りませんでした。
彼の心は、最初はバアルに力があると思い、次にエリヤに力があると思い、ようやく神様の力を悟りました。
しかし彼は、命乞いをするベネ・ハダデと勝手に契約を結び、帰らせてしまいます。
奇跡的な勝利に酔いしれたのか、持ち上げられて気分が良くなったのか、ダマスコの力に魅力を感じたのかもしれません。
神様は預言者を通して彼を諫めました。
負傷兵のふりをして、「捕虜を逃がした兵士は死に値するか」と問い、アハブ自身に裁きを語らせました。
そして正体を明かし、代わりにアハブ自身が死ぬことを告げました。
ダビデはナタンの言葉を聞いて悔い改めました。
サウルはサムエルに媚びました。
しかしアハブは悔い改めず、怒りと不満のまま帰って行ったのです。
5.エリヤとアハブの違い
この二人の違いは、「何を見て生きているか」です。
エリヤは、自分の思い通りの結果が得られず絶望しましたが、神様の憐れみを経験し、「神様を見る」者へと変えられました。
彼は神様の計画に関心を持ち、それに参加する決心をしました。
神様の計画は時に恐ろしく見えても、命を救う良い計画です。
アハブは、絶望的状況の中で神様の救いを経験しました。
しかし、神様ではなく自分を見続け、物質的な祝福にしか関心を持ちませんでした。
その結果、神様の計画に関心を持たず、注意されると心を閉ざし、命を失うことになります。
私たちは、「百億円もらえるが明日死ぬ」と言われても、誰も受け取りません。
それほど命は大切です。
しかし、私たちは明日があることを当たり前だと思っています。
それは神様が命を与えてくださっているからです。
アハブは、その当たり前のことさえ見えなくなっていました。
6.律法学者・パリサイ人の問題
イエス様は律法学者やパリサイ人に言われました。
彼らは十分の一献金を守り、律法を守っていましたが、最も大切な「正義、憐れみ、忠実」を見逃していました。
律法は神様を知り、神様との正しい関係を築くためのものでした。
しかし彼らは、それを「人から賞賛されるため」の道具に変えてしまいました。
同じ律法を守っていても、関心が神様にあるか、自分にあるかで、信仰はまったく違うものになります。
7.まとめ
エリヤとアハブは、共に絶望的な状況で神様の奇跡を見ました。
しかしエリヤは神様との関係を最優先し、アハブは自分が得るものを優先しました。
律法学者やパリサイ人も、信仰生活をしていながら、関心は神様ではなく自分自身にありました。
それが「偽善」と呼ばれた理由です。
この世は、目に見える成果や評価に目を向けさせます。
しかし、信仰とは神様とその計画に目を向けて生きることです。
アハブのように目に見える成功を追い求めて命を失うのではなく、
エリヤのように神様との関係を第一にし、神様の計画のために生き、


댓글0개