20230521早天祈祷会
聖書:創世記48:17–22
題目:人の常識に対抗する神の選び
賛美:569番
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
1.本文の解説
17節を見ると、ヨセフは父ヤコブが右手をエフライムの頭に置いているのを見て、不満に思いました。
そして父の手を、長男であるマナセの頭へ移そうとします。
ここで注目すべきは、ヤコブがまずヨセフの息子たち、つまり自分の孫に祝福の祈りを捧げていることです。
通常であれば、祝福は息子たちに与えられるものです。しかしヤコブは、ヨセフの二人の息子を、ヨセフの兄弟たちと同等の立場に引き上げました。
これは明らかに、この世の常識から外れた行動です。
さらにヤコブは、長男のマナセではなく、次男のエフライムに長子としての祝福を与えました。
これもまた、この世の常識では理解しがたい選びでした。
18節でヨセフは、「父よ、そうではありません。長子はマナセですから、右手を彼の頭に置いてください」と訴えます。
ヨセフは、長男であるマナセが長子の祝福を受けるべきだと考えていました。
そのため、マナセがヤコブの右手に、エフライムが左手に来るよう配置したのです。
しかしヤコブは、意図的に手を交差させ、右手をエフライムに、左手をマナセに置きました。
ヨセフは父の行動を正そうとしましたが、これは人間の常識から見れば、極めて自然な反応でした。
19節でヤコブはこう答えます。
「わかっている。マナセも一つの民となり、大いなる者となる。しかし弟のほうが兄よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となる。」
ここでヤコブは、マナセも祝福を受けることを否定していません。
しかし、エフライムの方がより大いなるものとなる、と明確に語っています。
ヨセフはこの選びをすぐには受け入れられなかったかもしれません。しかし最終的に、父の言葉を受け入れました。
それは、ヤコブ自身のこれまでの信仰の経験があったからです。
思い返せば、アブラハムの家系でも、二番目のイサクが選ばれました。
ヤコブ自身も次男でありながら祝福を受け、長子エサウはその権利を失いました。
またヨセフ自身の夢も、11番目である自分が兄たちの上に立つという、常識外れな内容でした。
20節でヤコブは宣言します。
「イスラエルは、人を祝福するとき、『神があなたをエフライムのように、マナセのようにされるように』と言うであろう。」
こうしてヤコブは、エフライムをマナセよりも先に立てました。
これは人間の考えではなく、神様の考えであることを、ヤコブは明確に伝えています。
人の常識と神の常識は異なります。
サラ、リベカ、ラケルはいずれも不妊でしたが、神様はその不可能の中から命を生み出されました。
神様の働きは、常に人の常識を超えています。
21節でヤコブはヨセフに語ります。
「私はやがて死ぬ。しかし神はあなたがたと共におられ、先祖の国へ導き返される。」
ヤコブは、自分がその約束の成就を見ることはできないと理解していました。
将来ほど不確かなものはなく、人は簡単に断定することはできません。
それでもヤコブは、神様の約束が必ず成就されることを、確信をもって語りました。
22節では、ヤコブがヨセフに兄弟たちよりも多くの相続地を与えることが語られます。
これは、ヨセフがエフライムとマナセを通して、実質的に二倍の祝福を受けることを意味します。
本来、二倍の祝福は長子が受け取るものです。
しかし神様は、ここでも常識を超えた祝福を与えられました。
この地はシケムの地であり、かつてヤコブが買い取った土地でした。
また、ヨセフの亡骸は400年後、その地に葬られることになります。
人間的には失敗や過去の傷と思える出来事さえも、神様は良い目的のために用いられるお方です。
2.イエスとこの世の常識
神様の考えと、この世の常識には明確な違いがあります。
人をこの世の常識だけで判断することは、非常に危険です。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの生涯は、そのことをはっきりと示しています。
だからこそ、私たちはどんな出来事が起こっても、過度に驚き、疲れ果てる必要はありません。
結婚の問題なども、その一例です。
ヨハネの福音書3章には、ニコデモが登場します。
彼はユダヤ人の指導者であり、サンヘドリンの議員で、人々から尊敬されていました。
しかしイエス様は彼に言われました。
「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
それは、自分のために生きる人生を殺し、キリストのために生きる人生を生きるという意味でした。
ニコデモは「もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。
彼は、この世の常識に縛られていたため、イエス様の言葉を理解できなかったのです。
人間の常識では、「自分が一番大切」という価値観が支配しています。
しかし聖書は、「自分を捨てれば永遠に生きる」と語ります。
これは人間の目には非常識に映ります。
信仰とは、自分の常識を捨て、非常識に見える神様に従うことなのです。
3.まとめ
人の目には非常識に見えても、私たちは主の導きを信じましょう。
ヤコブが、マナセとエフライムをヨセフの兄弟たちと同等に祝福したこと、
そして長子であるマナセではなく、エフライムに長子の祝福を与えたことは、
どれも人間の常識を超えた神の選びでした。
しかし神の民は、その「非常識」に見える神の導きの中で生きてきました。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフがそうでした。
旧約時代だけでなく、イエス様の時代だけでもなく、
今この私たちの時代においても、神様は常識を超えた働きを続けておられます。
そのことを信じ、主の導きに従って歩んでいきましょう。


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