20230528早天祈祷会
聖書:創世記49:25–33
題目:祝福の後にあるもの
賛美:267番
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
はじめに
私たちは「祝福」という言葉を聞くと、多くの場合、この世での成功、健康、物質的な恵みを思い浮かべます。しかし、聖書は「祝福を受けた後、どのように生きるのか」、そして「祝福の先に何があるのか」という、さらに重要な問いを私たちに投げかけています。
創世記49章は、ヤコブが死を目前にして、十二人の息子たちを祝福する場面です。そこには、単なる願望ではなく、神様から預かった言葉としての祝福と、その祝福の後に見据えられている“永遠”があります。
1.ヨセフが受けた祝福
ヤコブはヨセフに対して、特別に豊かな祝福を宣言します。
「あなたを助ける父の神により、全能者により、上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳房と胎の祝福をもって、あなたを恵まれる」(49:25)
ここで与えられている祝福には三つの種類があります。
第一に、「上なる天の祝福」です。これは聖霊による霊的な祝福を意味します。
第二に、「下に横たわる淵の祝福」、つまりこの世における物質的な祝福です。
第三に、「乳房と胎の祝福」、これは繁栄の祝福であり、ヨセフの子であるエフライムとマナセへと受け継がれていきます。
さらに26節では、ヨセフが受けた祝福の大きさが語られます。
「あなたの父の祝福は永遠の山の祝福に勝り、永久の丘の賜物に勝る」。
ここで示されているのは、祝福が限りないということです。
またヨセフは、長子の祝福として二倍の祝福を受けました。マナセとエフライム、二部族分の祝福です。
エフライムからはヨシュアが出、マナセは広大な土地を得ました。
2.ベニヤミンへの祝福
27節では、ベニヤミンへの祝福が語られます。
「ベニヤミンはかき裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には分捕り物を分ける」。
狼とは、戦う者を象徴しています。実際にベニヤミン族からは、エフデ、サウル王、エステル、そして使徒パウロが出ました。
「朝に獲物を食らい、夕に分ける」という表現は、本来夜に狩りをする狼の習性とは異なります。ここでの「朝と夕」は、「最初と最後」を意味しています。
つまり、最初は多くを得るが、最後にはそれを分け与える者になる、という祝福です。
ここで使われている「分ける」という言葉は「ハラーク」という語で、レビとシメオンにも使われました。しかし意味は異なります。
レビとシメオンの場合は「神様が彼らを分ける」でしたが、ベニヤミンの場合は「ベニヤミン自身が自ら分ける」という意味です。
最初に得たものを、自分の意思で他者に分け与える存在、それがベニヤミンの姿です。これは、王サウルの生き方とも重なります。
3.十二部族への祝福の本質
28節では、これらの言葉がすべて「祝福」であるとまとめられています。
中には呪いのように聞こえる言葉もありました。
実際、シメオンの祝福はその通りに成就しましたが、レビの祝福は後に祭司職という大きな祝福へと変えられました。
これらの祝福は、ヤコブ自身の考えから出たものではありません。
すべて神様から預かった言葉です。
4.祝福の後に語られたヤコブの願い
29節以降で、ヤコブは息子たちに自分の埋葬について語ります。
ヘテ人エフロンの畑にある洞穴、マクペラの畑に葬るように、非常に具体的に命じます。
そこはアブラハムが正式にお金を払って購入した墓地であり、
アブラハム、サラ、イサク、リベカ、そしてレアが葬られている場所です。
ラケルではなくレアが葬られている点にも、ヤコブの信仰的な選びが表れています。
なぜヤコブは、エジプトではなくマクペラを選んだのでしょうか。
それは、子孫たちに「約束の地はエジプトではなく、カナンである」ことを伝えるためです。
5.「その民に加えられた」という意味
33節で、ヤコブは息を引き取り、「その民に加えられた」とあります。
これは、神に選ばれた一族としての人生を全うした、という意味です。
また、信仰者でなければ加えられない「神の民」となったことを示しています。
6.ヤコブの祝福から学ぶこと
ヤコブは、もっと聞こえの良い預言を語ることもできたはずです。
しかし彼は、自分の思いではなく、神様から預かった言葉だけを語りました。
人によって与えられる祝福も、この世での役割も異なります。
問題は、人と比べて祝福が多いか少ないかではありません。
受験戦争のように比べること自体が問題なのです。
大切なのは、自分に与えられた役割を、どのように神様のために果たすかです。
ヨセフは二倍の祝福を受けましたが、エフライム族のヨシュア以外に目立つ人物はいません。
一方、呪われたレビは祭司となり、アロンの家系は大きな働きを担いました。
ヤコブは祝福の後、息子たちに「約束の地へ帰ること」を願いました。
祝福以上に大切なことがあると知っていたのです。
7.イエス・キリストの生き方
イエス様は、「わたしの国はこの世のものではない」と言われました(ヨハネ18:36)。
捕らえられる時も戦われませんでした。この世がご自分の国ではなかったからです。
イエスは、どのように祝福された人生を送るかではなく、
どのように死ぬか、そして神様の計画が成就することにこだわって生きられました。
8.私たちへの適用
私たちは、祝福ある人生をどう生きるかばかりを考えがちです。
しかしキリスト者として最も重要なのは、「どのように死ぬか」です。
死の問題を解決することが、人生の最優先課題です。
まとめ
ヤコブは祝福した後、自分が死んだ後のことを息子たちに願いました。
それは、エジプトではなくカナンこそが自分の国だと信じていたからです。
イエス様もまた、この世ではなく神の国を自分の国だと言われました。
それでは、私たちの国はどこにあるのでしょうか。
この世での成功だけを追い求めないでください。
祝福を受けたキリスト者の国は、この世ではありません。
私たちの国は神の国です。
神の国に入ることを見据えて、生きていきましょう。
댓글0개