20230723早天祈祷会
聖書:出エジプト20:7-11
題目:私たちの安息日
賛美:220
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
1.本文解説
7節
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、みだりに唱える者を、罰しないでは置かない。」
これは十戒の第三の戒めです。
第一に、ここで語られているのは、神様の清さや性質を引き下げてはならないということです。
「みだりに唱える」とは、神様を価値のない存在のように扱うことを意味します。
ヘブル的な考え方では、「名」はその人の実態そのものを表します。
日本でも「名に魂が宿る」と言われるように、名前は軽く扱ってよいものではありません。
実行する気がないにもかかわらず、神の名によって誓うことは、この戒めに違反します。
そのため、ユダヤ人たちは、偶然にでも神様の名前を口にしてしまうことを恐れました。
彼らは神様を「アドナイ(主)」と呼ぶようになり、神の御名を発音しなくなりました。
その結果、正確な発音は誰にも分からなくなり、「イェホバなのか」「ヤハウェなのか」も断定できなくなったのです。
8節
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」
これは十戒の第四の戒めです。
神様との契約関係に入った者は、神様がなさるように、自分も従って生きるよう求められます。
そのため、私たちも安息日を大切にしなければなりません。
9節
「六日の間働いて、あなたのすべてのわざをせよ。」
神様ご自身が、六日間で世界を創造されました。
10節
「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたも、あなたの息子、娘、僕、はしため、家畜、家にいる外国人も、何のわざもしてはならない。」
神様も七日目に休まれました。
ここで大切なのは、自分だけが神様に従えばよいという考え方ではないということです。
自分の主権の下にあるすべてのもの、つまり家族、僕、家畜に至るまで、共に安息に入るよう求められています。
11節
「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造り、七日目に休まれた。それで主は安息日を祝福し、これを聖とされた。」
ここで、安息日とは何かが説明されています。
第一に、安息日はシナイ契約の印です。
第二に、それは奴隷から自由の民になったことの印です。
第三に、毎日働き続けなくても、神様が必要を満たしてくださるという信仰の告白です。
たとえば、戦前の日本では「月月火水木金金」という言葉があり、休みなく働くことが美徳とされていました。
しかし、安息日は、そのような生き方からの解放を意味しています。
2.解釈
① モーセの律法に対する新約時代の考え方
イエス・キリストによって、私たちはすでに古い契約の下にはいません。
十戒を含め、モーセの律法をそのまま守る必要はありません。
しかし、イエスの教えと重なる部分については、新約時代においても守る必要があります。
② 十戒第三の戒め
「神の名をみだりに唱えてはならない」
「エホバ」と繰り返し唱えること自体が、問題なのではありません。
問題なのは、神様の名を貶めることです。
神様を王として愛しているなら、この戒めは新約時代でも守るべき内容です。
たとえば、自分の父親の名前を、意味もなく何度も呼び捨てにするような態度は、尊敬を欠く行為です。
それと同じことが、神様に対しても言えるのです。
③ 十戒第四の戒め
「安息日を覚えて、これを聖とせよ」
旧約・新約を通して一貫して、安息日は土曜日です。
安息日が日曜日に変わったと、聖書は教えていません。
また、聖書の中に「日曜日に礼拝せよ」という命令はありません。
④ 日曜日礼拝の歴史
ローマ帝国内に広がった反ユダヤ感情の中で、土曜礼拝をやめる教会が出始めました。
その後、コンスタンティヌス帝によって「日曜令」が出されます。
「太陽の日には、町に住む人はすべて仕事を休みなさい。
ただし、地方の農業は続けてもよい。」
キリスト教が国教になると同時に、日曜日礼拝が徹底されました。
ローマ・カトリック教会の
『改宗者のためのカトリック教理問答』には、こう書かれています。
「安息日はいつですか?――土曜日です。
では、なぜ日曜日に礼拝するのですか?――教会がそう決めたからです。」
⑤ 日曜日礼拝の理由
第一に、「どの日も大切である」(ローマ14:5)という教えがあります。
また、「定期的に集まることが大切である」(ヘブル10:25)とも教えられています。
つまり、安息日を守らなければならないというより、集まること自体が大切なのです。
第二に、土曜日が安息日となった理由は、神の国が完成し、安息が生まれたからです。
出エジプトによって神の国が回復し、安息という概念が生まれました。
第三に、イエスの復活は週の初めの日、日曜日でした(マルコ16:2)。
イエスの復活によって、再び神の国が回復し、安息が回復した日曜日に礼拝をささげるようになったのです。
第四に、実際にパウロたちも日曜日に集まっています。
「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」(使徒20:7)。
「週の初めの日ごとに、献金を取り分けなさい」(Ⅰコリント16:2)。
ここから、日曜礼拝が始まったことが分かります。
⑥ 毎日礼拝すべきである
初代教会の人々は、毎日、聖殿に集まり、家でパンを裂き、共に食事をし、神様を賛美していました
(使徒2:46–47)。
大切なのは、日曜日に礼拝しているかどうか以上に、毎日神様を賛美して生きているかです。
良くないのは、日曜日か土曜日かという問題で、互いに争うことです。
⑦ 私たちは神様にあって自由である
ローマ・カトリックやカルバン派では、詩篇以外の讃美歌を認めませんでした。
カルバン自身は、詩篇をもとに讃美歌を作詞・作曲しています。
一方、ルターは、祈りには詩篇を用いるべきだと考えましたが、
賛美については聖書から自由であるとしました。
当時、賛美はラテン語で、聖職者しか歌えませんでした。
ルターは、一般民衆が歌えるように、ドイツ語の讃美歌を作詞・作曲しました。
では、福音賛美歌は良いのでしょうか。
大切なのは、神様を賛美しているかどうかです。
もし自分が楽しむことが優先順位になっているなら、たとえ詩篇であっても、間違った賛美になります。
3.まとめ
① 神の名をみだりに唱えてはならない
私たちは、エホバの神を王として崇めなければなりません。
② 安息日を覚えて、これを聖とせよ
私たちは、神の国の安息が回復した日曜日を主日として礼拝します。
③ 私たちはすでに律法から解放されている
しかし、神の国の民として、毎日神様を崇め、賛美しながら生きていきましょう。


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