20230814修練会 二日目説教
聖書:ルカ7:36-50
題目:愛するために
賛美:끝없는 사랑
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
はじめに(主題)
人を赦し、愛することは、人間の努力によって成し遂げられるものではありません。
しかし、私たちがすでに神から赦されているという事実を本当に理解するとき、私たちは自然に他人を赦し、愛することができるようになります。
まず神の愛を知ることから始めましょう。
1.斎藤宗次郎の生涯
① キリスト教への改宗
斎藤宗次郎は、曹洞宗(조동종)の家庭に生まれました。彼は強い愛国心を持ち、内村鑑三の不敬事件に大きな怒りを覚えた人物でした。
「義人はいない。ひとりもいない」という内村鑑三の言葉をきっかけに、二人の間で手紙のやり取りが始まります。
その中で彼は、従うべき存在は日本の天皇ではなく、父なる神であることを知り、やがて洗礼を受けました。
しかし、改宗後、彼の人生には激しい迫害が待っていました。
石を投げられ、親から勘当され、教師の職を失います。
近所で火事(불)が起きた際には、無関係であったにもかかわらず放水され、家が壊されました。
さらに、9歳の長女が学校でのいじめにより腹部を蹴られ、命を落とします。
それでも彼は、「御心がなりますように」と祈り、その地を離れることなく生き続けました。
② キリスト者としての行動
斎藤宗次郎は、苦難の中でもキリスト者としての歩みをやめませんでした。
毎日、牛乳と新聞を配達しながら伝道を行い、10メートルごとに祈りました。
子どもに出会えばお菓子を与え、病気の人を訪ねて祈りました。
雨の日も、風の日も、雪の日も、その働きを続けました。
ある日、内村鑑三に招かれ、東京へ移り住むことになります。そのとき、
町長(시장)、有力者(유력자)、教師、生徒、神主(신관)、僧侶(승려)、一般の人々から物乞いに至るまで、200人以上が駅まで見送りに来ました。
宮沢賢治は、詩「雨にも負けず 風にも負けず(비에도 지지 않고 바람에도 지지 않고)」の中で、
「そういう人に わたしは なりたい」
と記していますが、それは斎藤宗次郎のような、キリスト者として生きる姿に心を打たれて書かれたものだと言われています。
③ 彼はなぜ、仕え続けることができたのか
なぜ斎藤宗次郎は、これほどひどい目にあっても、人々のために仕え続けることができたのでしょうか。
それは、努力によってできることではありません。
性格が良かったからできたことでもありません。
その答えは、今日の聖書本文の中にあります。
2.罪の女の赦し(ルカ7:36–50)
① パリサイ人シモンの家
当時、シナゴーグ(회당)での聖書朗読や説教の後、食事会が開かれることがありました。
犠牲をささげる礼拝は神殿で行われていましたが、シナゴーグは宗教的・道徳的な教えを聞く場でした。
ラビを招いて宴会を開くことは、高潔な行為とされていました。
宴会の場は一般の人にも開放され、傍聴が許されていました。
貧しい人々は、残り物を食べることができました。
イエスは、パリサイ人から三度、食事に招かれています(ルカ7章、11章、14章)。 これは、イエスの生涯において、論争が常につきまとっていたことを示しています。
シモンは、イエスを尊敬して招いたのではなく、メシアであるかどうかを確認するために招待しました。世間ではイエスは「大食らい、酒飲み、取税人や罪人の仲間」と言われていました(7:34)。
② 招かれざる客
そこに、罪の女、すなわち娼婦(창부)が入ってきます。
当時、異邦人の娼婦も多くいましたが、彼女はユダヤ人でした。
宗教的な家では、誰でも中に入って話を聞けるよう、扉が開かれていました。
傍聴者は食卓から離れて立ち、黙ってラビと主人の会話を聞きます。
しかし本来、戸口の召使は、彼女のような人間の入室を制限すべき立場にありました。
彼女は泣いていました。それは、愛するイエスが冷遇されているのを見たからです。
イエスは左肘をつき、横になって食事をしていたため、足は外側に伸ばされていました。彼女はその足元に立っていました。
③ 女の行動
彼女は涙でイエスの足を濡らし(적시다)、
髪の毛でそれを拭いました。
宗教的な婦人は頭にかぶり物をしており、公の場で髪を見せることは不道徳とされていました。それは、現代で言えばトップレスで公の場に出るような行為でした。
※礼拝の場では、男女ともに被り物(かつらやヴェール)が必要でした。
彼女はさらに、
その足に口づけし、
香油を塗りました。
頭ではなく足に油を塗ったのは、彼女の深い謙遜の表れです。香油は遊女にとって商売道具であり、パリサイ人にとっては忌むべきものでした。
④ シモンの心の中の結論
イエスは預言者ではない。
もし預言者なら、罪の女に触れさせるはずがない。
罪人に触れると、汚れが移る。
⑤ イエスの反論
イエスはシモンの心を見抜き、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と語りかけられます。
シモンは、「先生(ラビ)、お話しください」と答えました。「先生」という呼び方は、預言者以下の存在を指す言葉です。彼は、自分の心が見抜かれていることに気づいていませんでした。
⑥ 金貸しのたとえ
イエスは、二人の借金の話をされました。
一人は500デナリ、もう一人は50デナリの借金を負っていました。
1デナリは労働者一日分の賃金です。
問題は、「どちらがより多く、その金貸しを愛するか」という点でした。
シモンは用心深く、「多く赦されたほうだと思います」と答えました。イエスはその判断をほめましたが、同時に、この答えによってシモン自身は自らを裁くことになりました。
⑦ 女の行動の解説
本来、主人が客を迎える際に行うべきことがありました。
足を洗い、拭くこと(通常はしもべが行う)。
男性同士で頬に口づけをすること。
頭に油を塗ること。
シモンは、敬意を払っているように見えながら、実際にはイエスを見下していました。
一方、罪の女は、それらすべてを、しかも謙遜をもって行いました。涙で足を濡らし、髪で拭き、足に口づけし、足に香油を塗りました。
それは、多く赦されたことへの感謝の表現でした。シモンには、自分が赦されたという自覚も、赦される必要があるという思いもありませんでした。
⑧ 結果
イエスは女に言われました。
「あなたの罪は赦されています。」(ルカ7:49)
人々は彼女を「罪の女」と呼びましたが、イエスは公に彼女の罪の赦しを確認されました。
動詞は現在完了形で、イエスを信じた時点で赦され、その状態が今も続いていることを示しています。
この宣言は、彼女が共同体の中で新しい人生を歩むために必要なものでした。
これは、イエスが暗にメシアであることを示す宣言でもあります。
食卓に着いていた人々は驚きました。
「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」
神だけが罪を赦す権威を持っておられます。祭司は、代償のささげ物が献げられた後に、罪の赦しを宣言することができました。
しかしイエスは、代償のささげ物なしに罪の赦しを宣言されました。その代償は、後に十字架の死によって支払われることになります。
人々は、イエスを信じるか、拒否するかの決断を迫られました。
イエスは最後にこう言われました。
「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(7:50)
彼女は、愛の行為によって救われたのではありません。愛の行為は、イエスを信じた結果として現れたものです。
3.適用
① なぜ女は、そこまで尽くすことができたのか
彼女は、すでに多くの罪が赦されていることを知っていました。
愛したから救われたのではなく、救われたから愛することができたのです。
彼女は信仰によって、すでに神との平和を持っていました。
だからこそ、どこにでも入って行って奉仕でき、平安のうちに帰ることができました。
② 「多く奉仕すれば平安が得られる」という考えへの問い
神の赦しを理解すればするほど、神への感謝は深くなります。
パリサイ人シモンと罪の女の違いは、神の赦しを体験したかどうかです。
シモンは、自分が赦される必要があるとすら感じていませんでした。だから女のような奉仕ができなかったのです。
奉仕は、神の恵みに対する応答として生まれるものです。
奉仕が人を救うのではありません。
救われたからこそ、奉仕したくなるのです。
多く赦され、愛されたからこそ、愛したくなるのです。
※多く奉仕している人が、より多く赦されたという意味ではありません。人にはそれぞれ容量があります。容量を超えて仕えようとすることは傲慢です。
(例:トラックの積み荷)
③ 愛せない人が増えている現代
現代の一人っ子には、親の期待が100%集まりやすい傾向があります。
昔は「期待=愛している」という側面がありましたが、今はそうではありません。
他者からの期待、そして自分自身への期待が高くなりすぎています。
④ 愛せなくなる原因
期待に応えられない=愛されていない、と考えるようになります。
応えられない自分は必要とされていない、愛されていないと感じてしまいます。
現代では、「期待=許さない」という側面が強くなっています。
愛せない根本原因は、愛された経験、赦された経験が少ないことにあります。
⑤ どれほど自分が赦され、愛されているかを知るために
私たちは、「自分は斎藤宗次郎のように立派ではない、だからシモンのように悪い人間だ」と決めつける必要はありません。
努力することによってではなく、知ることによって、自然に他人を愛せるようになります。
(例:携帯電話を落とした子どもの話)
赦されたこと、愛されたことを思い出し、書き出してみましょう。
結びと祈り
神がどれほど私たちを赦し、愛しておられるかを知るとき、私たちは変えられます。
赦され、愛された者として歩み出しましょう。


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