20230917青年部礼拝
聖書:エズラ3:10–11
題目:礼拝って何?
賛美:나의 예수
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
主題
礼拝とは、喜んで神様の栄光を表すことであり、人生の目的です。
私たちは礼拝を通して、罪と死から解放し、平安を与えてくださった神様に感謝をささげ、新しく生まれ変わることができます。
そして、礼拝を最優先にして生きる私たちの姿そのものが、隣人に神様の素晴らしさを伝えます。
何よりもまず礼拝を回復し、神様の平安に満ちた人生を歩みましょう。
質問
「あなたにとって、礼拝とは何ですか?」
聖書朗読(エズラ記3:10–11)
こうして建築者が主の宮の基礎を据えた時、
祭司たちは礼服を着てラッパを持ち、
アサフの子らであるレビ人たちはシンバルを取り、
イスラエルの王ダビデの定めに従って、主を賛美しました。
彼らは互いに歌い交わし、主をほめたたえ、感謝して言いました。
「主はめぐみ深く、そのいつくしみは、とこしえにイスラエルに絶えることがない。」
すると民は皆、主の宮の基礎が据えられたのを見て、
大声で喜び叫びながら、主を賛美しました。
1.礼拝の歴史を振り返る
① モーセの時代からサウルの時代
礼拝は天幕で行われ、動物や穀物の犠牲がささげられました。
人々は祭司を通して神に近づき、安息日や祭り、犠牲を持参した時に礼拝しました。
また「ミクラー(聖会)」と呼ばれる、聖書朗読の集まりもあり、
安息日に労働を休み、定められた日に人々が集いました。
② ダビデの時代
礼拝の場所は、モーセの天幕に加えて「ダビデの幕屋」が建てられました。
犠牲に加え、賛美が大きな中心となり、
犠牲は祭司が、賛美はレビ族が担いました。
礼拝は安息日や祭りだけでなく、毎日ささげられるようになります。
③ ソロモンの時代から捕囚前
エルサレム神殿が完成し、礼拝の中心は神殿に移りました。
犠牲と賛美が行われ、祭司とレビ族が仕え、
安息日や祭りの時に礼拝が守られました。
④ 捕囚時代
神殿が破壊され、生贄をささげる礼拝が不可能になります。
その中で生まれたのがシナゴーグです。
聖書朗読と説教が中心となり、律法学者(ラビ)が教えました。
⑤ 捕囚後からイエス・キリストの時代
ゼルバベル神殿、そしてヘロデ神殿が再建され、
犠牲・賛美・祈り・献金が再び行われました。
同時に、シナゴーグでは朗読、説教、賛美、信仰告白が行われ、
イエス様ご自身もシナゴーグで教えられました。
⑥ ペンテコステからAD321年
イエス・キリストの死によって、犠牲は不要となりました。
それでも人々はしばらく神殿礼拝を続け、
AD70年の神殿崩壊後、完全に終わります。
礼拝は信徒の家や野外、カタコンベで行われ、
説教、聖餐、祈り、交わりが中心となりました(使徒2:42)。
⑦ AD321年以降
コンスタンティヌス帝により、キリスト教が国教となります。
既存の制度が教会に当てはめられ、
建物中心、日曜日中心の礼拝へと変化しました。
⑧ 歴史から学ぶこと
礼拝の方法、場所、日時は時代によって変わります。
聖書から知恵を得ることは大切ですが、
聖書に書かれていない部分に固執してはいけません。
形式や伝統にこだわり過ぎると、
礼拝は形骸化し、神様に拒まれることもあります。
2.礼拝とは何か
① 犠牲をささげること
旧約では罪のために動物がささげられました。
新約では、イエス・キリストが一度きりの犠牲としてささげられました。
だから今、礼拝とは自分自身を神様にささげることです。
② 感謝をささげること
時代と共に、捧げ物は動物、穀物、賛美、祈り、献金へと変化しました。
神様との関係が回復された人は、自然に感謝があふれます。
感謝を表すことも、立派な礼拝です。
③ 御言葉によって生まれ変わること
この世の価値観は、神の国の価値観を歪めます。
私たちは御言葉を通して神に近づき、正しい価値観を受け取ります。
聖書を読み、説教を聞き、祈り、信仰告白することも礼拝です。
④ 礼拝の力
礼拝を最優先する姿そのものが、伝道になります。
能力や技術ではなく、礼拝する生き方が人を神へ導きます。
だからこそ、まず礼拝の回復が必要です。
3.捕囚後のユダヤ人の姿
① ゼルバベルと大祭司ヨシュア
彼らはクロス王の命によって神殿を再建しました。
約50年間失われていた礼拝を回復するためです。
神と共に歩むことこそ、ユダヤ人の存在理由でした。
② ダニエルの礼拝
ダニエルは神殿礼拝も説教も受けられませんでした。
しかし彼は、1日3回エルサレムに向かって祈りました。
その生き方を通して、王に神の偉大さを伝えました。
③ 神殿再建後
人々は宣言し、演奏し、歌い、喜びの声で礼拝しました。
特定の形が礼拝なのではなく、
人生で神様の栄光を表すことが礼拝です。
大切なのは、その心です。
4.イエス様が教えた礼拝
① サマリヤの女性との対話
女性は礼拝の場所について質問しました。
しかしイエス様は、場所ではなく、
「霊と誠をもって礼拝する時が来た」と語られました(ヨハネ4:21–24)。
イエスの死後、私たち自身が祭司となり、神殿となりました。
「あなたがたの体は聖霊の宮である」(Ⅰコリント6:19)
日曜日に教会に来なければ礼拝できない、という考えは聖書的ではありません。
海でも山でも、仕事中でも、神様に直接近づけます。
② それでも教会は必要か
新約聖書に、教会に属さない信徒はいません。
互いに愛と善行を励まし合うため、集まる必要があります(ヘブル10:24–25)。
教会は礼拝するためだけの場所ではなく、
隣人を愛し、弱い人を支えるために集まる共同体です。
5.まとめ
私たち一人一人が神様の神殿であり、教会です。
キリストの血によって、私たちのいる場所が礼拝の場になります。
礼拝とは、
自分をささげ、感謝をささげ、御言葉によって新しくされることです。
日曜日だけの礼拝ではなく、
日々の生活そのものが礼拝となる時、
私たちの人生は神様の平安で満たされます。
形にこだわる礼拝ではなく、
心からささげる礼拝を回復する人生を歩んでいきましょう。


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