20231126青年部礼拝
聖書:マラキ2:1–4
題目:形だけの礼拝
賛美:主님의 임재 앞에서
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
主題
あなたは何のために礼拝をしていますか。
自分の利益を求め、心を捧げない形だけの礼拝は、神様からの呪いを受けます。その呪いは、礼拝そのものをさらに苦痛なものにします。しかし、悔い改め、自分自身を捧げ、心から神様に栄光を捧げる礼拝をするなら、主を恐れることを学び、礼拝生活が楽しくなり、主が共におられる祝福を実感するようになります。
質問
あなたが捧げている礼拝が、形だけの礼拝ではないと、なぜ言えるでしょうか。
1.間違った態度
まず、間違った態度について考えてみましょう。
デート中にもかかわらず、相手を見ずに携帯電話に夢中になっている男性がいます。
また、映画館で上映中なのに電話をしている男性もいます。
このような態度には、相手に対する愛情や情熱、誠実さがありません。
相手が怒るのも無理はありません。
礼拝においても、同じことが起こっているのです。
2.マラキが指摘する悪い礼拝
(1)マラキ書の背景
マラキ書は、エルサレムの城壁再建(前444年)後、
ペルシャ支配下の前440年から前400年頃に書かれたと考えられています。
そこに描かれているイスラエルの問題は、ネヘミヤが城壁完成後に目にした問題と非常によく似ています。
マラキ書には、神様と民との六つの討論が記されています。
人々は、形だけの礼拝を捧げながら、それが問題だとは気づいていませんでした。
神様への愛情や情熱、誠実さがないにもかかわらず、
自分たちはきちんと礼拝していると思い込んでいたのです。
(2)第一の討論:愛がない
神様は言われます。
「わたしはあなたがたを愛している」(1章2節)
しかし民は答えます。
「どのようにあなたは私たちを愛されたのですか」(1章2節)
神様はこう語られます。
「わたしはヤコブを愛した」
エサウの子孫であるエドムは、再び集められても散らされ、
すでに歴史の中から姿を消しました。
しかし、ヤコブの子孫であるイスラエルは、再び集められ、今も存在しています。
この「救われた状態」そのものが、
神様が私たちを愛しておられる証拠なのです。
同じように、キリストを信じて救われた者は、
聖霊に満たされ、死から解放され、平安を与えられています。
一方、未信者は死を恐れ、不安の中で生きています。
この違いこそが、神様の愛の証拠です。
(3)第二の討論:誠実さがない
神様は言われます。
「あなたがたはわたしの名を蔑ろにしている」(1章6節)
人々は言います。
「どのようにして私たちはあなたを汚しましたか」
神様は答えられます。
「それを総督に差し出すことができるか」(1章8節)
民は、傷のある生贄を平気で捧げ、
祭司もそれを平気で受け取っていました。
神様は目に見えないからといって、適当に扱っていたのです。
それは本当に誠実な態度でしょうか。
「時間があるときだけ奉仕しよう」
「余裕があるときだけ献金しよう」
「家でいらなくなったから教会に捧げよう」
これは誠実な姿勢でしょうか。
それを、夫や妻に対して同じようにできるでしょうか。
デート中に他の女性ばかりを見る彼氏、
前の恋人のことばかり考える夫。
それは、礼拝中に別のことを考えている聖徒の姿と同じです。
神様は、そのような捧げ物は受け取らないとはっきり言われます(1章10節)。
間違った態度で捧げるくらいなら、しない方がましだと言われるのです。
そして、形だけの礼拝に対して、
神様は「祝福を呪いに変え、あなたがたのいけにえの糞を、あなたがたの顔にまき散らす」とまで語られました(2章3節)。
(4)第五の討論:神様の提案
神様は言われます。
「わたしのもとに帰れ」(3章7節)
人々は尋ねます。
「どのようにして帰ろうか」
神様は答えられます。
「献金によってである」(3章8–9節)
それは、自分にとって一番大切なものを差し出すことです。
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」とイエス様は語られました。
献金とは、財政的な面で神様を信頼する行為です。
神様は、捧げる者に対して、さらに多くを与えると約束されました。
民が不誠実であっても、
神様は約束を誠実に守られるお方です。
その結果、私たちは、
神様が誠実であり、愛なる方であることを知るようになります。
3.新約時代が教える正しい礼拝
(1)イエス・キリストの教え
イエス様は言われました。
「まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって礼拝する時が来る」(ヨハネ4章23節)
「霊」とはプニューマ、つまり自分のすべてをもって捧げることです。
「まこと」とはアレイシア、嘘や偽りのない誠実さです。
形だけの礼拝は意味がなく、
やがてつまらなくなってしまいます。
(2)パウロの教え
パウロはこう語ります。
「あなたがたの体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供物として捧げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12章1節)
それは、
自分ではなく、神様が喜ばれる態度か。
死んだ心ではなく、情熱をもっているか。
聖別された生き方をしているか、という問いです。
そうでなければ、礼拝は必ずつまらなくなります。
(3)サマリヤの女
サマリヤの女は、五回の結婚と離婚を繰り返しました。
自分が求めるものを相手に求め、
それが得られなかったからです。
彼女は、価値を「物」や「条件」に求めていました。
しかし、イエス様は「乾くことのない生ける水」を与えると言われました。
その生ける水とは、物ではなく、イエスという存在そのものでした。
彼女はその存在の価値に気づき、
水瓶を置いたまま町へ行き、その感動を人々に伝えました。
同居していた男性には伝えませんでした。
理解してもらえないと思ったからです。
(4)礼拝が回復すると
多くの人は、サマリヤの女のように、
自分の霊的な盲目さに気づいていません。
礼拝、すなわち神様との交わりが、つまらなくなっています。
しかし、謙遜で誠実に礼拝し、
神様の命令に従うなら、
私たちは、自分のために歴史される神様を見るようになります。
そのとき、礼拝が楽しくなり、人生が楽しくなります。
それこそが、最も力ある伝道です。
それは、私たちの努力や所有物によるものではありません。
それらはこの世の価値観であり、
サマリヤの女がかつて抱いていた、平安のない生き方なのです。
4.まとめ
形だけの礼拝を捧げることは、
デート中に他の女性に目を向けることと同じです。
それをやめるまで、
私たちを愛する神様は、あえて呪いをもって警告されます。
心からの礼拝を捧げるためには、
自分にとって一番大切なものを神様に差し出しなさい。
そうすると、神様が愛であり、誠実な方であることが分かります。
心からの礼拝を捧げると、
物よりも存在が大切であることが分かり、
神様が私たちを通して働かれる姿を見るようになります。
その結果、
礼拝が楽しくなり、人生が楽しくなります。


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