20231215金曜祈祷会
聖書:詩篇100:3
題目:我らは主の羊
讃美:이 믿음 더욱 굳세라
説教:高曜翰
場所:중앙성서교회
詩篇100篇3–5節
「主が神であることを知れ。主が、私たちを造られた。私たちは主のものである。主の民、その牧場の羊である。
感謝をもって主の門に入り、賛美をもってその大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」
1.自分がどのような存在かを知ることの大切さ
① 乙武洋匡さんの例
乙武洋匡さん(1976年生まれ)は、生まれつき両手両足がありませんでした。当時は、障害のある子どもを隠そうとする風潮が強くありました。しかし、彼の母親は違いました。息子を「かわいい」と喜び、積極的に外へ連れ出し、人々の前に立たせたのです。
母親は、乙武さん自身が「貴重で価値のある存在」であることを、繰り返し教えました。「ないことは悪いことだ」「あることが正義だ」という社会の価値観の中で、彼女は「ないことも良いことだ」と語り、何でも一人でできるように育てました。
学校でからかわれたときも、言い返す力を身につけさせました。「どうして手足がないの?」と聞かれれば、「お母さんのお腹に忘れてきた」。 「手足がないのに何ができるの?」と言われれば、「手足があるのに、その程度なの?」と答えたそうです。
自分がどのような存在であるかを知ったとき、乙武さんは人生を楽しみ、母を尊敬し、感謝するようになりました。もし母親が申し訳なさそうに育てていたなら、彼は自分を「かわいそうな存在」だと思い、人生を楽しめず、母を憎み、尊敬することもできなかったでしょう。
2.私たちはどのような存在なのか
① 詩篇100篇が教えていること
詩篇100篇は、どのようにすれば私たちが感謝し、喜んで礼拝できるのかを教えています。礼拝の中で感謝できず、喜ぶことができない人は、ぜひこの詩篇に耳を傾けてください。
その鍵は、「私たちは羊であり、神様は牧者である」という理解にあります。
② 羊の特徴
羊は非常に弱く、臆病な存在です。危険を察知すると、すぐにパニックになって逃げ出します。倒れてしまうと、自分で起き上がることができず、そのまま命を落とすこともあります。敵が現れると、逃げることさえ諦め、群れで固まってじっとしています。
また、羊は道を覚えることができず、歩き慣れた道でもすぐに迷います。判断力が弱く、すぐに他の羊についていきます。
性格の面でも問題があります。仲間が襲われていても集まって見ているだけで、角を持っていながら敵には立ち向かいません。弱い仲間を突くことはあっても、敵と戦うことはしないのです。一人では生きられないのに、群れがいないとストレスを感じます。
このように、どうしようもない存在が羊であり、それは私たち人間の姿でもあります。
③ 牧者の役割
牧者はまず「導く者」です。羊は道を覚えられず、臆病ですぐに混乱するため、牧者が毎日餌場へ連れ戻します。羊は他の羊どころか、自分自身さえ導くことができません。
牧者は「守る者」でもあります。羊は角を持っていても戦おうとせず、自分の命すら守れません。そのため牧者は命を懸けて獣から羊を守ります。
さらに牧者は「平安を与える者」です。一匹一匹を世話し、健康状態を確かめ、安心を与えます。羊はストレスに弱く、倒れても自分で起き上がることができません。牧者が手の届かない顎の下を触ると、羊は大きな安心を覚えると言われています。
このどうしようもない存在を、一生懸命世話するのが牧者であり、神様なのです。
④ 羊が知っているただ一つのこと
羊は自分たちがどれほど弱い存在かを正確には理解していません。しかし、たった一つだけ確実に知っていることがあります。それは、「牧者がいなければ生きていけない」ということです。
羊は、牧者が自分たちの導き手であり、守り手であり、平安を与える存在であることを知っています。だから牧者の姿を見ると安心します。
私たちは忘れてしまっていますが、人間も本来、神様を見て安心する存在なのです。
3.イエス・キリストは牧者である(ヨハネ10:9–11)
当時、牧者は安息日も守れない卑しい職業とされ、裁判で証言することさえ許されない存在でした。そのような中で、イエスがご自身を「牧者」と呼ばれたことは、人々に大きな衝撃を与えました。
① イエスは導く方
「だれでも、わたしを通って入るなら、救われ、また出入りし、牧草を見つけるであろう」(ヨハネ10:9)。
イエスについていくなら、日々の糧は与えられます。それは私たちの努力によるのではありません。
生活が落ち着いたら教会に行く、時間ができたら神様を優先する、という姿勢ではありません。試験や仕事を理由に神様を後回しにしてはなりません。
羊が羊を導けないように、人が人を導くことにも限界があります。教会の頭は牧師や長老ではなく、イエス・キリストです。だからこそ、私たちは人を自分に導くのではなく、神様へと導く者でありたいのです。
② イエスは守る方
「良い牧者は羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。ここで使われている「命(プスケー)」とは、肉体の命を指します。
私たちは、自分の力で自分を守ることはできません。お金や知恵、能力が命を守るのではありません。人が人を守ることにも限界があります。
イエスだけが、羊のように弱い私たちのために、命を捨ててでも守ってくださる方です。この世のものは、真の危険が訪れると私たちを見捨てて逃げていきます。しかし、イエスは違います。
③ イエスは平安を与える方
「わたしが来たのは、羊が命を得、しかも豊かに得るためである」(ヨハネ10:10後半)。
ここで言われている「命」には二つの意味があります。プスケーは肉体の命、ゾーエーは霊的な命、すなわち永遠の命です。永遠のゾーエーはありますが、永遠のプスケーはありません。
イエスは、肉体の命だけでなく、永遠の命を与えてくださいます。その保証が、私たちに真の平安を与えます。
羊が群れにいるだけでは得られない平安を、牧者が与えるように、イエスだけが与えることのできる平安があります。人や物に頼る安心は一時的ですが、牧者がおられることによる安心は永遠です。
4.まとめ
① 喜びと感謝をもって礼拝できない人へ
私たちは羊です。道に迷いやすく、簡単に倒れ、不安定な存在です。お金や仲間が多くあっても、導く者なしには生きていけません。
② 私たちにはイエス・キリストという牧者がいる
イエスは、どうしようもない私たちを毎日導き、命を懸けて守り、平安を与えてくださる方です。肉体の命ではなく、永遠の命を与えてくださいます。
③ どのように生きるべきか
足りないものばかりを見て、断食と祈りをささげること自体は悪いことではありません。しかし、それが不平不満へと変わる危険もあります。
大切なのは、私たちがどのような存在であり、神様がどのようなお方であるかを、実際に経験することです。
自分が羊のような存在であることを知り、私たちを導き、守り、平安を与えるイエス・キリストを経験するとき、私たちは必ず、喜びと感謝をもって神様に礼拝をささげる者へと変えられていくのです。


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