20240112金曜祈祷会
聖書:雅歌3:1-4
題目:全てを捨ててでも会いに行こう
讃美:主님 다시 오실 때까지
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
1.二兎を追う者は一兎も得ず
「二兎を追う者は一兎も得ず」という言葉があります。
韓国語では「두 마리 토끼를 잡으려다간 한 마리도 못 잡는다」と言います。
この言葉は、もともと昔からあるローマの諺です。
意味はとてもシンプルです。
欲張って二つのことを同時にうまくやろうとすると、結局どちらも失敗してしまう。
だからこそ、一つに集中しなさい、という教えです。
日本人はこの諺をとても好みます。
それは、欲張らないように、謙遜であるようにと自分を戒めるためです。
一方、韓国では「二兎を獲る(두 마리 토끼를 잡다)」という言い方があり、
二つとも手に入れようとするニュアンスで使われることもあります。
しかし、どちらにしても一つ確かなことがあります。
本当に大切な一つを手に入れるためには、他を諦めなければならないということです。
これは、私たちの信仰にもまさに必要な姿勢です。
2.雅歌3章の背景と解説
前回の雅歌のお話は結婚式当日の場面でしたが、
今回の箇所は婚約時代の物語です。
① 結婚前の女性の心情
1節:夜、床の上で愛する人を探す女性
女性は夜、ベッドの上で横になりながら、
「わが魂の愛する人」を探します。
しかし、見つかりません。呼んでも返事がありません。
ここで注目すべき点があります。
ヘブル語では「夜」が複数形で書かれています。
つまり、これは一晩だけの出来事ではなく、毎晩繰り返されていることなのです。
雅歌2章を見ると、男性は羊飼いとして働いており、
仕事のため長い間、会いに来ることができませんでした。
そのため女性は、毎晩のように愛する人を思い、
会いたい気持ちが強すぎて、眠ることすらできません。
「わが魂の愛する人」という表現は、
魂のレベルで彼を求めており、自分では止められないほどの思いを表しています。
2節:町中を探し回る女性
女性はついに立ち上がり、町の中を歩き回って愛する人を探します。
しかし、それでも見つかりません。
当時、女性が夜に一人で町へ出ることは、非常に危険であり、
常識的にはあり得ない行動でした。
このことから、この場面が夢の中の出来事であることが分かります。
それでも彼女は、安全な家を出て、
危険な町に行ってでも、愛する人に会いたいと願いました。
「探す」という言葉が、1節と2節で合計4回も繰り返されています。
これは、彼女がどれほど必死に探しているかを示しています。
3節:警備員との出会い
町を巡回していた警備員たちが彼女を見つけます。
彼女は彼らに尋ねます。
「わが魂の愛する人を見ませんでしたか?」
この警備員たちが味方なのか敵なのかは分かりません。
もしかすると連れ戻されるかもしれません。
それでも彼女は、見知らぬ人に愛する人の居場所を尋ねるほど、
切羽詰まっていました。
彼女の関心は、自分がどうなるかではありません。
ただ愛する人を見つけることだけでした。
4節:ついに愛する人を見つける
ついに彼女は、警備員たちを通り過ぎた後、
わが魂の愛する人を見つけます。
彼女はしっかりと彼を捕まえ、もう離しません。
そして最終的に、母の家、
自分を産んだ者の部屋へと彼を連れて行きます。
危険な夜に、自分の安全も、したいことも捨て、
危険な町へ出て行った結果、
彼女はついに愛する人に出会いました。
生まれた時から、最も安心できる場所、
最もプライベートな空間へと彼を招き入れたのです。
② この歌から分かる結婚前の女性の三つの心理
第一に、
会いたい気持ちが毎日夢に出てくるほど、男性を愛しているということです。
現実ではあり得ないことを夢に見るほど、
不安になるほど、男性を愛しています。
第二に、
全てを放棄するほど男性を愛しているということです。
彼に会うために、睡眠も、健康も、安全な家も、常識も捨てました。
女性は結婚のために、多くのものを放棄します。
自分のしたいこと、行きたい場所、貴重な時間、
安全、そしてお金さえもです。
妊娠すれば、食べる物も、健康も、行動範囲も自由ではなくなります。
男性は、これを負担に感じることがあっても、
決して忘れてはなりません。
誕生日は「自分を祝ってもらう日」ではなく、
自分を産むために犠牲を払った母に感謝する日でもあります。
第三に、
自分から捕まえに行くほど男性を愛しているということです。
不安が抑えきれず、待つのではなく、
常識では考えられない行動を起こします。
③ 男性に対する女性の三つの思い
女性は男性を、
毎日夢に見るほど愛しています。
全てを放棄するほど愛しています。
そして、自分から会いに行かずにはいられないほど愛しています。
3.イエスの教え ― 私たちはどれほどイエスを愛しているか
① 毎日イエスに会いたいほど愛しているか
イエスは言われました。
「人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ4:4)
私たちは毎日ご飯を食べます。
それなのに、神の言葉は毎日読まない。
これはおかしくないでしょうか。
毎日やることはたくさんあるのに、
聖書を毎日読まないのは不思議ではないでしょうか。
妻には毎日会わないのに、
毎日他の女性がいるのは許されるでしょうか。
今は直接イエスの顔を見ることはできませんが、
御言葉を通して声を聞くことはできます。
初代教会の人々は、心を一つにして毎日宮に集いました。
毎日聖書を読むこと、それがイエスに会うことです。
② 全てを捨てるほどイエスを愛しているか
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、
主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)
イエスは神の栄光を捨てて人となり、
私たちのために命まで捨ててくださいました。
それなのに私たちは、自分の自慢ばかりし、
自分の命ばかりを気にしています。
妻がいるのに、昔の彼女の写真を大切に保管しているのは正しいでしょうか。
イエス以外のもの、
神の栄光以外のものは、全て諦める心が必要です。
③ 自分から会いに行くほどキリストを愛しているか
イエスは言われます。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。
誰でもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、
わたしはその人のところに入って、共に食事をする」(黙示録3:20)
訪ねて来たイエスに、
扉を開けずに「入ってきてください」と言うのはおかしくありませんか。
自分の妻にしてもらうばかりで、
自分は何も反応しないのは正しいでしょうか。
自分から出て行って、会いに行く心が必要です。
「あなたがたが一心にわたしを尋ね求めるなら、
わたしはあなたがたに会う」(エレミヤ29:13–14)
4.結論:全てを捨ててでも会いに行こう
この世の人でさえ、
自分の欲しいもののために、他を手放します。
学校に入るために、友達やゲームや好きなことを諦めます。
それなのに、
なぜ私たちはイエスのために自分を諦められないのでしょうか。
神を信じていると言いながら、
なぜ自慢をやめられないのでしょうか。
それは、妻や夫がいるのに、
昔の異性を忘れられないのと同じです。
イエスのために、全てを諦める覚悟を持ってください。
友達やゲーム、この世はあなたを愛していません。
科学、勉強、お金、礼儀、常識があなたを救うわけではありません。
全てを捨てて私たちを愛してくださったイエスを覚え、
全てを捨ててでも、イエスに会いに行く心を持ちましょう。
その心があるなら、
私たちは主イエスが再び来られる日を、
喜びをもって待つことができるのです。


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