20240505青年部礼拝
聖書:ルカ18:9-14
題目:パリサイ人と取税人の祈り
賛美:나는 아무것도 아닙니다
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
1. 譬え話の背景と目的
この譬え話は、「どのように祈るべきか」を教える話ではなく、自分は義人であると思い込むことの危険性を示しています。自分を義人だと信じる人は、他者と比較して優越感を得ようとし、他者を軽蔑する傾向があります。また、自分の才能や努力によって自己を正当化し、神の憐れみに反発することさえあります。神は、そのような人を義と認めません。
私たちは他者を見下すのではなく、神を見上げ、自分が罪人であるという事実を受け入れることから祈りを始めるべきです。自分の状況の深刻さを理解することで、同じ立場の人々への共感力が生まれ、他者を憐れむことができるようになります。また、人間の無力さを痛感することで、神の慈悲を心から求めることができるようになります。
2. 「義」の意味と危険性
(1) 「義」の成り立ち
義の漢字は「羊(いけにえ)」と「のこぎり」から成り立っています。
生贄を神に捧げることで義とされることを象徴しています。
義かどうかは人間ではなく、神によって判断されます。
(2) 現代クリスチャンの理解
「我=自分」の上に「羊=イエス・キリスト」があるときに初めて義とされます。
自分の努力や善行では義とされず、神の恵みによってのみ義とされます。
(3) 日本での義の使い方
「正義の味方」はいても、「正義の人間」はいません。
自分は良い人間だと主張する人は、実際には高慢の危険を抱えています。
→ここから、義を自称することの危険性を考え、自分が本当に「良い人間」かを振り返る必要があります。
3. パリサイ人と取税人の祈り
(1) 背景
この話の前には、不義な裁判官の話(18:1〜8)があり、祈りと信仰の持続について教えられます。
18:9〜14では、義認についての話を通して、神の前での正しい姿勢を教えています。
パリサイ人や弟子、群衆も含め、「自分は良い人だと思い込む」人々に対する警告です。
(2) 二人の祈り手(18:10)
パリサイ人:ユダヤ人の中で立派な人格者とされ、民衆に人気がある。
取税人:ユダヤ人に嫌われる最低の売国奴。
祈りの場:エルサレム聖殿。
(3) パリサイ人の祈り(18:11-12)
「他の人たちのように奪う者、不正な者、姦淫する者、取税人でないことを感謝します。」
→ 感謝の皮をかぶった自慢で、他人と比較して優越感を得ている。「週に2回断食し、全収入の十分の一をささげています。」
→ 自分の行いで自己義認をしている。他人を見下し、自分を中心に考える傾向が強い。
(4) 取税人の祈り(18:13)
遠くに立ち、目を天に向けず、胸を打ちながら「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈った。
自分の無価値さを自覚し、神の憐れみによる義認を求めた。
(5) イエスの評価(18:14)
義と認められたのは取税人であり、パリサイ人ではなかった。
自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。
4. パリサイ人の態度の問題点
(1) 優越感
他人と比べて自分は正しいと思う。自分中心の価値観。
他人を蔑むことで安心し、神の偉大さではなく自分の優位さに平安を求める。
失敗した人々に共感できず、裁く態度を取る。
(2) 行いによる自己義認
自分の行動を他人と比較して自分を正当化する。
他人より自分が優れていることに平安を求め、神の憐れみを無視する。
自分に甘く、他人に厳しい態度になり、神の恵みに対してさえ怒るようになる。
5. 取税人の態度から学ぶこと
神との比較を行う
自分と他人ではなく、自分と神を比べる。
神を見上げることで、自分の罪を正しく認識できる。
神の憐れみに平安を求める
自分が罪人であることを認め、神の憐れみによってのみ平安を得る。
謙遜な心は他者への共感と哀れみを生む。
自分の力では義とならず、神によってのみ義とされる
努力や行いによって義とされるのではない。
キリストの下で自分を低くすることでのみ、神に義と認められる。
神の憐れみによって義とされることを知る人は、他者の救いも喜ぶことができる。
6. まとめ
自分と他人を比べるのではなく、自分と神を比べよう。
優越感の中に平安を求めるのではなく、神の憐れみに平安を求めよう。
自分の力では義とされず、神によってのみ義とされることを知ろう。
義となる方法は、自分の努力や優秀さによるのではなく、キリストの下で自分を低くすることである。


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