20240906金曜祈祷会
聖書:サムエル下1:11–12
題目:サウルのために泣くダビデ
賛美:선한 능력으로 、주님 말씀하시면
説教:高曜翰 副牧師
1.導入 ― 渡辺和子の証し
1936年2月26日、雪の多い朝に事件が起こりました。いわゆる2・26事件です。当時9歳だった渡辺和子さんは、軍人である父と共に寝ていましたが、物音で目を覚ましました。
父はすでに起きており、母のもとへ行くように言いました。しかし彼女が戻ってくると、父は彼女を押し入れに隠し、自らは機関銃の銃弾を43発受けて命を落としました。
渡辺和子さんは、父から一生分の愛を受けて育ったと語っています。病気のときは本を読んでくれ、眼鏡を壊しても怒らず、宴会帰りにお土産を買ってきてくれる父でした。父が死ぬとき、その場に自分がいてよかったと思ったとも語っています。
戦後、50歳のとき、父を殺した側の弟と出会ったときにも、まだ赦せていない自分に気づきました。しかし同時に、父の娘であることを再確認して喜びも感じました。
さらに60歳近くになったとき、父を殺した相手の葬式に出席するよう勧められました。迷いながらも出席しました。なぜなら、父ならそうしなさいと言っただろうと思ったからです。
その時、相手はこう言いました。
「感謝します。私たちの2・26がようやく終わりました。」
その瞬間、被害者である自分以上に苦しい人生を送ってきた人がいることに気づいたのです。
これは、愛する父の思いから人を見る姿勢でした。
2.サウルとダビデの関係
(1)ペリシテとの大戦
この戦いでは、イスラエル側にサウル王、ヨナタン、アビナダブ、マルキシュアがおり、敵はペリシテ人でした。ダビデは当初ペリシテ側にいましたが、他の将軍たちの反対によって戦いには参加できませんでした。
ダビデは他民族を虐殺したと偽って報告し、王の信頼を得ていました。しかし拠点シグラグに戻ると、アマレク人によって家族と財産が奪われていました。妻アヒノアムとアビガイルも連れ去られ、部下からも信頼を失い、石で打たれかけるほど追い詰められました。
(2)戦争の結果
戦いの結果、サウル王とその子たちは死亡し、イスラエルは敗北しました。
一方ダビデは神に尋ね、エジプト人奴隷から情報を得てアマレク人を追跡し、すべてを取り戻しました。そして戦利品を友人の長老たちに分け与えました。
その後、イスラエルに住むアマレク人がダビデのもとに来て、「サウルに頼まれて自分がとどめを刺した」と報告しました。
(3)報告に来たアマレク人の思い
本来ならサウルの死の知らせはイスラエル側に伝えるべきものでした。
しかし彼は、将来王になるであろうダビデに取り入ろうとし、宿敵サウルの死を聞いてダビデが喜ぶと考えました。
(4)悲しむダビデ
しかしダビデは悲しみました。
自分を苦しめてきたサウルが死んだにもかかわらず、泣いたのです。これはヨナタンだけのためではありません。
ダビデは過去に、
-
竪琴を奏でているときに三度槍を投げられた
-
祭司アヒメレクを巻き込み、その一家を死なせてしまった
-
異邦の王の前で狂人のふりをした
-
サウルから三千人の兵で追われた
という苦しみを経験しました。
それでもなぜ、敵のために泣くことができたのでしょうか。
3.神様に権威を置く生き方
(1)自分基準ではなく神様基準
ダビデはサウルを「主の油注がれた者」、すなわち主のメシアとして認めていました(2サムエル1:16)。
だからこそ、たとえサウルが気に入らなくても、神の権威として尊重したのです。
ダビデがサウルを殺さなかったのは恐れからではなく、神の権威を重んじていたからです。
箴言24章には「敵が倒れても喜んではならない」とあります。もしパリサイ人が自分基準ではなく神基準であったなら、イエスをメシアと認めることができたでしょう。
ダビデのように神の基準で判断することが重要です。
(2)自分ではなく人を立てる謙遜
ダビデはサウルとヨナタンを「鷲よりも速く、獅子よりも強かった」と称賛しました(2サムエル1:22–23)。
実際、サウルは鉄器文化のペリシテに対して勝利し、十二部族をまとめていました。ダビデは悪い面だけでなく、良い面も認めました。
ギルアデの人々もサウルの恩を覚え、命をかけて遺体を取り戻し、七日間断食しました。
またローマの百人隊長がイエスを神の子と認めたのは、外側ではなく内面を見ようとしたからです。
パウロも「すべて真実で、称賛に値するものを心に留めなさい」と語っています(ピリピ4:8)。
罪は罪として指摘する必要があります。しかし、良い部分は良いと認める心が必要です。
(3)人を見るとき、父なる神の思いを考える
ヨハネ3章16–17節は、神が世を愛し、救うために御子を遣わされたことを語ります。
神にとってサウルも愛する存在でした。始まりも終わりも失敗した人物であっても、神は彼を愛しておられました。
イエスは滅びゆくエルサレムを見て泣かれました。人々が理解しなくても、十字架の苦しみの中でも、父なる神の思いを見ていたからです。
4.まとめ
なぜ敵のために憎まず、泣くことができるのでしょうか。
① ダビデは自分の基準ではなく神様の基準を持っていた。
② ダビデは自分ではなく人を立てる謙遜な心を持っていた。
③ 私たちもダビデのように、人を見るとき父なる神様の思いを考えよう。


댓글0개