20240929早天祈祷会
聖書:士師記11:29–31
題目:エフタの誓い
賛美:492
説教:高曜翰 副牧師
「時に主の霊がエフタに臨み、エフタはギレアデおよびマナセをとおって、ギレアデのミヅパに行き、ギレアデのミヅパから進んでアンモンの人々のところに行った。
エフタは主に誓願を立てて言った、『もしあなたがアンモンの人々をわたしの手に渡されるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう』。」
(士師記11:29-31)
1.本文解説
① 主の霊が臨んだエフタ
聖書はまず、「主の霊がエフタに臨んだ」と語ります。
エフタはもともと勇敢な勇士でした。しかし、それでも戦いの勝利は彼自身の力ではなく、神の力によるものでした。
エフタは、自分の居場所から故郷へ戻り、戦場であるミヅパに進み、アンモン人と戦いました。
これは、神に助けを求めた人々に対して、主がギレアデから士師を送られたことを示しています。
② エフタの誓いの問題
エフタはこう誓いました。
「もしアンモン人に勝たせてくださるなら、家に帰った時、最初に私を迎えるものをささげます。」
ここには問題があります。
第一に、彼は自分本位な基準で誓願を立てています。
第二に、律法では人身供犠、すなわち人をいけにえとしてささげることは禁じられています(申命記18:10)。
子どもをささげるよう命じられたのは、アブラハムに対する特別なケースだけでした。
第三に、全焼のいけにえとしてささげられるのは、傷やしみのない清い動物(牛、羊、やぎ、鳩)だけです。
罪ある人間がささげものになることは決してありません。
第四に、たとえ誓いを立てても、それが成就したとき、評価額に2割を上乗せして支払えば買い戻すことができました(レビ記27章)。
しかしエフタは、その道を選ばず、後に人をささげることになります。
③ エフタが忘れていたこと ― 謙遜
エフタが忘れていたことは、謙遜でした。
主の霊が臨み、主が勝利を与えてくださるのですから、「主がなさいました」と言えばよいのです。
しかし誓いを立てたということは、心の中に自分中心の思い、傲慢さがあったということです。
もし本当に謙虚であれば、誓いを立てる必要はありません。
たとえ立ててしまったとしても、恥ずかしくても取り消すことができたはずです。
2.新約聖書における誓い
イエスはこう言われました。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」
(マタイ5:34-37)
① すべての誓いが禁じられているわけではない
イエスは、すべての誓いを禁止されたのではありません。
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約束を交わすこと
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契約を結ぶこと
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結婚の誓い
これらは認められています。
契約のない社会は、平和や安全を保障できない無政府状態になります。
イエスが禁止されたのは、軽率な誓い、浅はかな誓い、傲慢な誓いです。
② 人は誓いを守れるか分からない
人間は、自分が誓ったことを守れるかどうか分かりません。
私たちは誤った判断を下しますし、正しいと分かっていても実行する力がないことがあります。
明日のことさえ分かりません。未来を知っているのは神様だけです。
だからこそ、誓うのではなく、謙虚になることが大切です。
③ 神様が最善をなさる
神様は常に最善を行われます。
エフタに霊が臨み勝利したように、神様が働かれるのです。
私たちは不完全な人間ですから、完全な神様に信頼し、従うべきです。
「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言い、従うこと。
それが悪から遠ざかる道です。
■ 具体的な適用
たとえば、
「父と母の病気を治してくだされば、私が面倒を見ます。どうか治してください。」
と祈ることがあります。
しかし、病気を治すのも、その後の面倒を見るのも、主がなさることです。
「ああしてください」「こうしてください」と条件をつけるよりも、
「すべてを主にお任せします」と祈ることが最も良いのです。
3.まとめ
① すべての誓いが禁じられているわけではない。
② しかし、自分が守れるかどうか分からないのだから、軽率に誓ってはならない。
③ 神様が最善を行われるので、誓う必要はない。
結論
誓うことよりも、謙虚に従うことを選びましょう。
今週一週間、誓いよりも信頼を、
条件よりも従順を選ぶ歩みとなりますように。


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