20241013早天祈祷会
聖書:士師記13:8-10
題目:主に願うマノア
賛美:494
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
聖書本文
「そこでマノアは主に願い求めて言った、『ああ、主よ、どうぞ、あなたがさきにつかわされた神の人をもう一度わたしたちに臨ませて、わたしたちがその生れる子になすべきことを教えさせてください』。神がマノアの願いを聞かれたので、神の使は女が畑に座していた時、ふたたび彼女に臨んだ。しかし夫マノアは一緒にいなかった。女は急ぎ走って行って夫に言った、『さきごろ、わたしに臨まれた人がまたわたしに現れました』。」
1.マノアの願いとその問題点
① もう一度現れてください
マノアは主に祈りました。
「もう一度神の人を送ってください。私たちが何をすべきか教えてください。」
しかし実は、神の人はすでに妻に語っていました。
酒を飲まないこと、汚れたものを食べないこと、髪の毛を切らないこと。
そして二度目に現れた時も、同じことを語りました。
ここで何が問題でしょうか。
マノアは妻の言葉を信じられなかったのです。
自分にも直接現れることを求めました。
つまり、見ないで信じる信仰がなかったのです。
妻の証言では足りず、自分の目で確かめたい。
これは後にトマスが抱いた問題と同じです。
② 神はその願いを聞かれた
驚くべきことに、神はマノアの願いを聞かれました。
それは信仰に満ちた願いというより、不信仰から出た願いでした。
それでも神は憐れみによって応えてくださいました。
神は時に、私たちの弱さを知り、目で見せてくださることがあります。
しかしそれは本来の姿ではありません。
本当は、最初の語りかけで信じるべきだったのです。
③ 妻を通して与えられた機会
神はマノアではなく、妻に現れました。
これは偶然ではありません。
神は妻を通して、マノアに信じる機会を与えていたのです。
しかしマノアは、その機会を十分に活かせませんでした。
それでも妻は急いで走って伝えました。
彼女は夫が信じるためには、直接見せるしかないと理解していたのです。
2.新約聖書に見る同じ問題
① トマスの場合
イエスはトマスに言われました。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは、他の弟子たちが復活を見たと証言しても信じませんでした。
しかし問題は、人の話を疑ったことではありません。
イエスが生前に語っていた言葉が実現しているのに、それを信じなかったことです。
トマスはイエスの言葉よりも、自分の知恵を信じていました。
目に見える情報でしか判断できなかったのです。
見て信じるのは確認です。
見なくても信じるのが信仰です。
② ヘブル書が語る信仰
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)
「望んでいる事がら」とは、自分の望みではなく神様の望みです。
もし自分の願いが中心なら、それは神を利用しているにすぎません。
「まだ見ていない事実を確認する」とは、
神の計画の全貌が見えなくても、必ず成就すると信じることです。
アブラハムは自分の世代で完成を見ませんでした。
それでも神の約束を信じました。
目に見える結果を見てから信じるのは信仰ではありません。
→ 信仰とは、目に見えない神様の望みに中心を置き、必ず成就すると信じることです。
③ それでも求め続ける信仰
イエスは言われました。
「求めよ、そうすれば与えられる。捜せ、そうすれば見いだす。門をたたけ、そうすればあけてもらえる。」
マノアは信仰が十分ではありませんでしたが、願いました。
その願いに神は応えてくださいました。
イエスはしるしを求める者に「ヨナのしるし」以外は与えられないと言われました。
それでも、求め続ける者を神は憐れまれます。
今日、私たちには聖書があります。
神は御言葉を通して語り続けておられます。
たとえすぐに見つからなくても、
神を探し続けることが信仰です。
3.まとめ
① 目で見なくても、目に見えない神様の人格を信頼して信じることが真の信仰である。
② 自分ではなく、神様の望みに中心を置き、必ず成就すると信じることが真の信仰である。
③ たとえすぐに答えが見えなくても、神様を探し続けることが信仰である。
私たちもマノアのように主に願いましょう。
そして願わくば、見なくても信じる、マノア以上の信仰を持つ者となりましょう。


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