聖書:使徒行伝2:1-4
題目:ペンテコステ
賛美:182、183
説教:高曜翰 副牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
(1)五旬節――預言の成就の日
五旬節の日に、弟子たちは皆一つの所に集まっていました。
五旬節は、ヘブル語で「シャブオット(七週の祭り)」、ギリシャ語で「ペンテコステ(五十日目)」という意味を持ちます。過越祭の後、最初の安息日の翌日(日曜日)に初穂の大麦をささげます(レビ23:10)。この日に主イエスは復活されました。
それから五十日目の日曜日に五旬節が始まります。ユダヤ人たちは過越祭のためにエルサレムに集まり、そのまま五旬節まで滞在しました。主イエスは復活後四十日間弟子たちに現れ、昇天されました。そして弟子たちは九日間、祈りつつ待っていたのです。
過越祭に十字架があり、五旬節に聖霊降臨が起こったのは偶然でしょうか。ルカは、この日に五旬節の預言的意味が成就したと考えています。旧約は新約の雛形です。
過越祭では、大麦を初穂としてささげ、七日間種なしパンを食べます。パン種(イースト)は罪を象徴し、家から取り除かれました。
しかし五旬節では、小麦粉にパン種を入れて焼いたパンを二つささげます。パン種入りの二つのパンは、ユダヤ人と異邦人をそのまま主の前に持ってくることを象徴していると考えられます。イスラエルだけでなく、異邦人の救いが始まることを示しているのです。
ユダヤ人は毎年『ルツ記』を読み、ボアズとルツの物語を思い起こします。そこには二つのパンが主の前にささげられる背景があります。しかし、その深い意味に気づいていないのです。
過越祭は出エジプトを記念し、キリストの十字架による罪と死からの解放を指し示します。五旬節は律法授与を記念しますが、新約においては聖霊によって律法が心に書き記されることを意味します。
(2)風の響きと火の舌
突然、天から激しい風が吹くような響きが起こり、家全体に満ちました。また、炎のように分かれた舌が現れ、一人一人の上にとどまりました。
使徒2章5節から推測すると、彼らは神殿近くにいたと考えられます。ステパノが神殿を「家」と呼んだように(使徒7:47)、ここでの「家」も神殿を指している可能性があります。
ここで重要なのは、実際に風が吹いたのではなく、「風のような響き」があったこと、また炎そのものではなく「炎のような舌」が現れたことです。聖霊は肌で感じたのではなく、耳で聞き、目で見たのです。風も火も、聖霊の象徴です。
『出エジプト記』19章では、主が火の中にあってシナイ山に降りられ、山全体が煙り、震えました。今回も火が現れ、響きがありました。しかし決定的に違うのは、神が山に降りられたのではなく、人の内に住まわれるようになったことです。
(3)聖霊に満たされ、語り出す
彼らは皆、聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに他国の言葉で語り始めました。
これは百二十人全員だったのでしょうか。それとも十二使徒だけだったのでしょうか。使徒2章7節によれば、他国の言葉で語った者たちはガリラヤ人でした。したがって、十二使徒であった可能性が高いと考えられます。
重要なのは、これは使徒自身の力ではなく、聖霊が語らせたという点です。エルサレムにいた巡礼者たちは、教会の誕生を目撃しました。
この出来事以来、キリストを信じる者の内に聖霊が住むようになりました。聖霊のバプテスマとは、キリストの体である教会と一体となることです。キリストを信じた瞬間、すべての信者は聖霊によるバプテスマを受けるのです。
2.適用
(1)聖霊は救いのために与えられる
聖霊は、人々の救いのために与えられました。
神はイスラエルを通して、異邦人を含むすべての人を救う計画を持っておられました。しかしイスラエルは自分たちの救いだけを考えていました。
主イエスの復活後、弟子たちを通して異邦人への救いの道が開かれました。そのために聖霊が与えられ、教会が始まったのです。聖霊の力は、私たちがこの世で楽しく過ごすためのものではありません。
パウロは、『エペソ人への手紙』2章15節で、「二つのものを新しい一人の人に造り上げて平和を実現するため」と語り、また18節では「一つの御霊において父のみもとに近づくことができる」と語っています。
私たちは、自分の内に聖霊が住んでいることを認めているでしょうか。もし認めるなら、その力によって御言葉を伝えるべきです。それは信じる者だけでなく、まだ信じていない者に対してもです。この救いは突然始まったものではなく、長い神の計画の中にあるのです。
(2)教会は聖霊に満たされる人を育てる場所
教会は、聖霊に満たされる人々を生み出す場所です。
使徒たちに聖霊が降り、力が与えられました。しかし重要なのは、特別な能力以上に、聖霊によって生きることです。
主イエスは、聖霊が教えることを語っておられました。イエスご自身も聖霊に満たされておられました。私たちも、キリストによって御霊において父のもとに近づく者とされています。
私たちの教会の目的は何でしょうか。ただ人を集めることでしょうか。それとも、人々が聖霊に満たされることまで願っているでしょうか。
人が来ればよい、というものではありません。その人が本当に聖霊に満たされることを目指すべきです。離れることを恐れて、本質を見失ってはなりません。
(3)聖霊に満たされるよう祈ろう
教会の一人一人のために祈りましょう。
霊的な目が開かれ、聖霊に満たされますようにと祈りましょう。
異言や火や風といった目に見える現象に心を奪われるのではなく、目には見えない聖霊の充満を求めて祈りましょう。
ペンテコステの出来事は、教会の始まりです。そして今もなお、聖霊は私たちの内に働いておられるのです。
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