20241203早天祈祷会
聖書:使徒行伝2:33-40
題目:この時代と決別する
賛美:91、86
説教:高曜翰 副牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
① イエスがメシアであることの証明
本箇所は、使徒たちが異言を語った理由の説明から始まります。ペテロは、旧約のダビデの言葉を用いて、イエスがメシアであることを証明しました。
まず第一に、ダビデによって預言されていたメシアこそイエスであり、そのイエスをユダヤ人たちが十字架につけて殺してしまった、という事実を語ります。
第二に、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受け、その聖霊を使徒たちに注がれました。だからこそ、使徒たちは聖霊に満たされ、異言を語っているのです。これは偶然でも熱狂でもなく、昇天されたイエスの御業の結果でした。
第三に、パリサイ人たちが理解できなかった疑問に対して、ペテロが答えています。彼は詩篇110篇1節を引用しました。
「主はわが主に言われる、
『わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、
わたしの右に座せよ』」
詩篇110篇はメシア預言の詩篇です。ここでの問いはこうです。
神はダビデに語られたのでしょうか。神の右に座しているのはダビデなのでしょうか。メシアとはダビデ自身なのでしょうか。
「主」は神を指し、「わが主」はダビデの主、すなわちメシアを指します。ペテロは明確に宣言します。神の右に座しているのはダビデではない。イエスこそがそのメシアであり、イエスの昇天によってこの預言は成就したのだ、と。
② 悔い改めへの招き
ペテロの説教を聞いたユダヤ人やディアスポラの人々は、心を強く刺され、「兄弟たちよ、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねました。
悔い改めとは何でしょうか。それは単なる後悔ではありません。イエスに対する理解を根本から変えることです。
当時の人々は、ローマの圧政からイスラエルを解放してくれるダビデのような王を期待していました。しかし、イエスは政治的革命の王ではなく、罪と死の問題から人間を解放する王でした。その理解の転換こそが悔い改めです。
ペテロはさらに言いました。「この曲がった時代から救われなさい。」
悔い改めるとは、イエスを拒否した世代、この曲がった価値観の時代と決別することを意味します。
③ 悔い改め・洗礼・聖霊の賜物
ペテロは、「悔い改めなさい。そしてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば聖霊の賜物を受ける」と語りました。
ここで大切なのは、洗礼を受けたから救われる、あるいは自動的に聖霊に満たされる、という意味ではないということです。
悔い改めによって救われた者が、その信仰告白として洗礼を受けるのです。洗礼は救いの条件ではなく、救われたことの公の告白です。
2.適用
① 私たちの存在理由
私たちの存在理由は、イエスがメシアであることを証明することです。
ペテロは漁師であり、学問のある人物ではありませんでした。しかし、パリサイ人たちが理解できなかった真理を語りました。それは彼が悔い改め、救われ、聖霊に満たされたからです。
私たちに与えられている優れた部分、賜物や能力は、自分を誇るためではありません。イエスがメシアであることを証明するために与えられているのです。
② もらうことよりも悔い改め
当時の人々は、「どのように祝福を受けるか」「どうすれば解放されるか」と考えていました。彼らのメシア像は、ローマから解放してくれる英雄でした。
しかしペテロは、洗礼者ヨハネやイエスと同じように、まず悔い改めを語りました。
私たちも祝福をどう得るかで悩む必要はありません。まず悔い改めることが先です。
③ この世と決別する
悔い改めとは、自分が王であるこの世と決別することです。
洗礼を受けるとは、王である自分を殺すことを意味します。それは「これからは自分のためではなく、神のために生きます」という告白です。
洗礼を受けたから救われるのではありません。救われた者が、その決意を公に表すのが洗礼です。
私たちは、この世の楽しみを追い求め、自慢し、自己中心に生きる価値観と決別しなければなりません。
3.まとめ
第一に、私たちはイエスがメシアであることを証明するために、今ここに生かされています。
第二に、何かをもらおうとする前に、まず悔い改めましょう。
第三に、悔い改めとは、王である自分を殺し、イエスを王として生きることです。その告白が洗礼です。
今日一日を生きるとき、自分がこの世の人間として生きているのか、それともイエスがメシアであることを証明する者として生きているのかを、静かに考えてみましょう。


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