20241214土曜祈祷会
聖書:創世記21:1–7
題目:サラ―サラの従順
説教:高曜翰 副牧師
場所:大阪中央教会
Ⅰ.サラの失敗とその姿
1.サラの問題行動(創世記16章、18章)
サラは信仰の人として知られていますが、最初から従順であったわけではありません。彼女には明らかな失敗がありました。
第一に、神様に対する不満です。彼女は「神様が、私が子どもを産めないようにしている」と考えました。そこには、神の約束よりも現実を優先する心が見られます。
第二に、人間的な提案です。彼女は「ハガルによって私は子どもの母になれる」と考え、自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与えました。神の時を待たず、人間的な方法で問題を解決しようとしたのです。
第三に、夫への批判です。「私が受けた被害はあなたの責任です」と言い、人間関係の破壊を夫のせいにしました。そして結果的に、ハガルをいじめることになりました。
さらに彼女は、神の約束を笑いました。「老人なのにどうして子を産めるのか」と疑ったのです(創世記18章)。神の約束を非常識だと感じ、心から受け止めることができませんでした。
2.母としてのサラ
しかしサラは、失敗だけの人ではありませんでした。
イサクはサラの死後、リベカに会うまで深く落ち込んでいたと記されています(創世記24章67節)。これは、サラが良き母であったことを示しています。イサクにとって、母の存在は大きな慰めであり支えでした。
3.妻としてのサラ(創世記23章)
また、妻としてのサラの姿も重要です。
アブラハムは、サラを故郷ではなく、神が約束された地に葬ることを決めました。そして妻の墓のために、約束の地で大金を払って土地を購入しました。ヘテ人の文化的な高額請求を、そのまま受け入れたのです。
そこには、妻への深い愛情が表れています。サラは、夫にそれほど大切に思われる存在でした。
Ⅱ.新約聖書に見るサラの評価
サラは旧約だけでなく、新約聖書でも高く評価されています。
1.ペテロの評価(Ⅰペテロ3章6節)
ペテロの第一の手紙3章6節にはこうあります。
「たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。」
サラは、アブラハムに仕え、彼を主と呼びました。アブラハムには多くの失敗がありました。エジプトやゲラルで妻を妹と偽り、危険にさらしたこともあります。また、ハガルの件ではリーダーシップを発揮できませんでした。
それでもサラは、夫に従いました。その従順さが、新約において称賛されているのです。
2.へブル書の評価(へブル11章11節)
ヘブル人への手紙11章11節にはこう記されています。
「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。」
サラは当初笑いました。しかし最終的には、非常識とも思える神の約束を受け入れました。そして、神は真実なお方であると信じました。そこに彼女の信仰の成長があります。
3.イエス・キリストの従順
ローマ人への手紙5章19節にはこうあります。
「すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。」
イエス・キリストの従順によって、私たちは救われました。サラの従順は、その大いなる従順を指し示す一つの証しでもあります。
Ⅲ.サラの信仰に学ぶ
サラの信仰は、決して完璧な出発ではありませんでした。しかし彼女は成長しました。
第一に、足りない夫への従順です。夫に弱さがあっても、神の前で従う道を選びました。
第二に、非常識に思える神の約束への従順です。理性を超えた神の御業を信じ、神を真実なお方として受け入れました。
第三に、それでも従い続けた信仰です。失敗があっても、笑ってしまう弱さがあっても、最終的に神に従ったのです。
私たちも、サラのように成長する信仰を持ちましょう。失敗があっても終わりではありません。神を真実なお方として信じ、従い続ける者となりましょう。


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