20250307早天祈祷会
聖書:使徒行伝7:54-60
題目:ステパノの死
賛美:401、406
説教:高曜翰 副牧師
【聖書朗読】
人々はこれを聞いて心の底から激しく怒り、ステパノに向かって歯ぎしりをしました。
しかしステパノは聖霊に満たされ、天を見つめていました。すると神の栄光と、神の右に立っておられるイエスが見えました。
ステパノは言いました。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
人々は大声で叫び、耳をふさいで、ステパノにいっせいに殺到しました。
彼を町の外に追い出し、石で打ち殺しました。証人たちは自分の上着をサウロという若者の足もとに置きました。
ステパノは石を投げつけられながら祈り続けました。
「主イエスよ、私の霊をお受けください。どうかこの罪を彼らに負わせないでください。」
こう言って、彼は眠りにつきました。
1.本文解説
(1)人々は激しく怒り、歯ぎしりをしました
「歯ぎしり」は、のこぎりで二つに切られるような激しい怒りを表す言葉です。
また、犬が攻撃しようとして唸るような状態も意味します。
以前ペテロの時も同じように激しく怒りましたが、そのときはガマリエルがいて助かりました。
しかし今回は、冷静に止める者がいませんでした。
(2)ステパノは天を見つめ、神の栄光とイエスを見ました
ステパノは人々を見るのではなく、天を見ました。
そして神の右に立つイエスの栄光を見ました。
イエスが「神の右の座に着く」と語られた言葉が真実であることを証ししました。
この言葉はイエスご自身が冒涜罪として訴えられた内容でもあり、ステパノも同じ理由で冒涜罪とされました。
(3)ステパノは町の外で石打ちにされました
人々は大声で叫び、耳をふさいでステパノに殺到しました。
彼を町の外に追い出して石で打ち殺しました。
神殿の中では死刑が許されなかったため、エルサレムの外に追い出されたのです。
証人たちは着物をサウロという若者の足もとに置きました。
石打ちでは、着物を脱ぐことで正確に石を投げる準備をしました。
サウロはサンヘドリン議員ではなかったものの、何らかの立場を与えられていたと考えられています。
(4)ステパノの祈り
ステパノはこう祈りました。
「主イエスよ、私の霊をお受けください。
この罪を彼らに負わせないでください。」
ユダヤ人の習慣では、石打ちの前に自分の罪を告白したり、「私の死がすべての罪の贖いとなるように」と祈ることがありました。
この祈りはイエスが十字架上で語られた祈りに似ています。
イエスは「父よ、私の霊を御手にゆだねます」「彼らをお赦しください」と祈られました。
ステパノはこうして眠りにつきました。
ここでの「眠りについた」は、肉体の活動が止まり、魂が神のもとに帰ったことを意味します。
当時ユダヤ人には死刑執行権がなく、ローマの許可が必要でした。
イエスとは異なり、無名であったステパノの場合、サンヘドリンは問題にならないと判断したと考えられます。
2.適用
(1)生きるか死ぬかは本質的な問題ではありません
もし助かる方法を考えるなら、次のような疑問が生まれます。
ガマリエルがその場にいたらペテロのように助かったのか。
イエスのように有名であればローマの目を気にして助かったのか。
「神の右の座にイエスがいる」と言わなければ助かったのか。
議員に対してもっと敬意を示せばよかったのか。
また、なぜ神様はステパノを助けなかったのかという疑問も生まれます。
ダニエルは助かりましたが、洗礼者ヨハネは助かりませんでした。
ペテロは助かりましたが、ステパノは死にました。
この違いの理由は、人間の側から完全に理解することはできません。
(2)神様に受け入れられる存在であるかが重要です
ステパノは神の栄光とイエスを見ました。
神の国に迎え入れられる平安がありました。
死の中でも、イエスのように祈りました。
「私の霊を委ねます。彼らを赦してください。」
私たちはこの世がすべてではありません。
私たちは神の国に向かう存在であり、死はその途中にある通過点にすぎません。
例えば、学校でいじめを受けている学生であっても、この世がすべてではありません。
(3)私たちは使命のために生きています
イエスはこう祈られました。
「私はもうこの世にはいませんが、彼らはこの世に残っています。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。それは、彼らが一つとなるためです。」
私たちが生きているのは、正しいからでも、悪いからでもありません。
今すぐイエスに会いたくても、死んではいけません。
この世で与えられた使命がある限り、生きなければなりません。
私たちが死ぬのは、使命が終わったときです。
ステパノのように、愛するイエスに温かく迎え入れられるときが来ます。
私たちは死ぬ時期や死に方を選ぶことはできませんが、その死は休息となります。
私たちが死ぬときは、外国での使命を終えて、本当の家に帰るようなものです。
3.まとめ
① 生きるか死ぬか、どのように死ぬかは本質ではありません。
② 重要なのは、神様に受け入れられる存在であるかどうかです。
③ 私たちは使命のために生きており、死は休息のために本当の国に帰ることです。


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