過去説教(日本語)

  • 説教材料설교자료 >
  • 過去説教(日本語)
ハンナ―どのように平安が訪れるのか?(サムエル上1:10−18)
고요한 2026-03-07 추천 0 댓글 0 조회 51

 

20250329土曜祈祷会

聖書:サムエル上1:10−18
題目:ハンナ―どのように平安が訪れるのか?

説教:高曜翰 副牧師

場所:大阪中央教会

1.本文解説

①ハンナの置かれていた環境

まず、ハンナの環境について見てみましょう。

ハンナの夫はエルカナで、彼にはもう一人の妻ペニンナがいました。当時は一夫多妻が許されていた時代でした。ペニンナには息子と娘が合わせて十人以上いましたが、ハンナには子どもがいませんでした。聖書は「主がハンナの胎を閉ざしておられた」と記しています(1:5)。

当時の社会では、子どものいない女性は神の祝福を受けていない、あるいは呪われていると考えられていました。そのためハンナは大きな苦しみを抱えていました。

さらに、もう一人の妻であるペニンナはハンナを絶えず悩ませ、苦しめました(1:6)。夫エルカナはハンナを愛し、たくさんのものを与えて慰めようとしましたが、その慰めはハンナの心を癒すことはできませんでした(1:8)。

このようにハンナは、家庭の中で深い悲しみと苦しみを抱えて生きていたのです。


②ハンナの祈り

そのような中で、ハンナは祈りました。

礼拝が終わり、食事をした後、ハンナは深く心を痛めながら主に祈りました。彼女は次のように祈りました。

「もし男の子を与えてくださるなら、その子の一生を主に捧げます。」

つまり、自分が求めている子どもを神様に返すという祈りでした。

しかし、その祈りの姿を見た祭司エリは、ハンナが酒に酔っているのではないかと思い、彼女を叱りました。するとハンナはこう答えます。

「どうぞ、はしためにもあなたの前に恵みを得させてください。」

このように、ハンナは心の底から神様に祈りを捧げました。

その祈りの後、不思議な変化が起こりました。

まず、それまで食事も喉を通らないほど苦しんでいたハンナが、食事を取ることができるようになりました。さらに、彼女の顔はもはや悲しげではなくなりました。

しかし、環境は何一つ変わっていません。
子どもはまだ与えられていません。
ハンナをいじめるペニンナもすぐ隣にいます。

祭司エリからの言葉はありましたが、神様から直接の応答があったわけでもありません。

それでもハンナは、祈りを通して心が癒されたのです。


③なぜハンナは癒されたのか

では、なぜハンナは癒されたのでしょうか。

それは、自分の人生を神様に捧げる決意をしたからです。

ハンナの苦しみが消えたのは、苦しめる人がいなくなったからではありません。また、神様が必ず願いを聞いてくださると確信したからでもありません。

ハンナは「子どもを神様に捧げる」と祈りました。
これは、最も大切なものを神様に差し出すという意味です。

最も大切なものを差し出すということは、自分の人生そのものを神様に差し出すということです。

聖書の中でも同じような出来事があります。
アブラハムがイサクを神様に捧げた出来事です。そして神様ご自身も、私たちのために御子イエス・キリストを犠牲として与えてくださいました。

ハンナは、自分の人生を神様に委ねる決断をした時、平安を得たのです。


④なぜ苦しみがあるのか

では、なぜ私たちの人生には苦しみがあるのでしょうか。

第一に、人と比較するからです。

ペニンナがハンナより正しいから子どもが与えられたわけではありません。私たちが苦しむのは、神様の計画があるからです。

例えば、北朝鮮で生まれた人が罪人であり、アメリカで生まれた人が義人であるということではありません。人生の環境の違いは、人の価値や信仰を決めるものではないのです。

第二に、自分を神様に差し出していないからです。

私たちは、神様から何かを与えてもらうことばかり考えます。そして、神様の考えを変えようとします。だから苦しくなるのです。

しかし、自分自身を神様に差し出し、自分が変わる時、苦しみはなくなっていきます。

第三に、そこには神様の計画があるからです。

神様がハンナに子どもを与えなかったのは、ハンナを憎んでいたからではありません。夫や子どもではなく、神様に頼る人生にこそ本当の平安があることを教えるためでした。

ハンナが自分の子どもを神様に捧げる祈りをした時、彼女はまだ子どもを授かっていませんでした。しかしその時すでに、彼女の心には平安が与えられていたのです。


⑤私たちがするべき祈り

では、私たちはどのように祈るべきでしょうか。

イエスはこのように教えられました。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、何でも望むものを求めるがよい。」(ヨハネ15:7)

また、

「信じて求めるものは、みな与えられるであろう。」(マタイ21:22)

とも言われました。

この言葉は、何でも自分の願いが叶うという意味ではありません。神様に人生の主権をお返しし、キリストに従う人生を歩むならばという意味です。

だからこそ私たちは、神様に自分のすべてを捧げることができるように祈るべきです。

神様から何かを受け取る人生ではなく、神様に自分を捧げる人生を送る人が、真の平安を得るのです。

その時、人生は変えられます。神の子として生きる人生になるからです。

平安は、環境が変わったから訪れるのではありません。願いが叶ったから与えられるものでもありません。

神様から与えられたからではなく、神様に捧げた時にこそ、真の平安が得られるのです。

それがハンナの祈りでした。​ 

자유게시판 목록
구분 제목 작성자 등록일 추천 조회
이전글 神の掟を喜びに変えるもの(詩篇119:65-72) 고요한 2026.03.07 0 51
다음글 御言葉に従うペテロ(使徒行伝10:17-23) 고요한 2026.03.06 0 44

大阪中央教会 ⧧537-0023 大阪市東成区玉津3-1-33 (06) 6973-5540, 6929-1569 www.chuo.co.kr yeohanko@gmail.com

Copyright © 오사카중앙교회. All Rights reserved. MADE BY ONMAM.COM

  • Today13
  • Total99,934
  • rss