20220410 日曜午後礼拝
聖書:ヨシュア 9:19-20
題目:決断の時に
説教者:高曜翰 伝道師
1.どのように決断するか?
現在ロシアとウクライナとの間で戦争が行われています。プーチン大統領は、ウクライナがロシア側からNATO側に移ることを恐れ、ウクライナへの侵攻を決断しました。詳しいきっかけは不明のままですが、ロシアにとってウクライナのNATO加盟は、経済的にも軍事的にも不都合なことでした。重要な不凍港の拠点と、NATO加盟国との間の地理的な緩衝材を失うことになるからです。一方でゼレンスキー大統領は、ウクライナがロシアの支配下に取り込まれることを恐れて、徹底抗戦を決断しました。現在、片方は世界中から批判を浴びることになり、もう片方は世界中から応援される結果となりました。どちらも一国家の大統領として命がけの決断をしたことになります。この決断というのは、決して遠い国の高い地位の人にのみに迫られるものではなく、私たちの人生の中でも大きな決断を迫られることが必ずあります。私たちはどのように決断すべきなのでしょうか?
2.偽りの契約
エリコ、アイを攻略したイスラエル人に対抗して、カナン7部族の王たちが結束し、本格的に戦争が始まろうとしていました。この7部族は、神様がモーセに「何の契約もしてはならず、何の憐れみも示してはならず、完全に滅ぼさなければいけない」と言われた人々です(申命記7:2)。しかし、イスラエル人はギベオンに住むヒビ人と「滅ぼさない」という契約を神の名のもとにしてしまいました。実際は10㎞程度しか離れていないのにもかかわらず、彼らの「遠くの国から来た」という嘘を信じてしまったからです。彼らは用意周到に、乾いて砕けたパンと、破れた葡萄酒の皮袋、ぼろぼろになった服と靴を見せました。そして、エリコやアイでの戦いを知っていることを伏せ、エジプトからヨルダン川までの戦いを知っているとだけ伝え、イスラエル人を安心させたのです。彼らは、イスラエルの町を攻め込むときの決まり事(申命記20:10-18)を、そしてイスラエルの神の強さを知っていたのです。ここで、イスラエル人は神に尋ねないという過ちを再び犯してしまいます。3日後、彼らが近くに住んでいることを知り、自分たちが騙され、知らないうちに罪を犯していたことに気付きました。ここでイスラエル人は究極の選択を迫られます。申命記7:2の命令通りに、偽りによって結ばれた契約を破棄し、ギベオン人を滅ぼすべきか、もしくは民数記30:2の命令通りに、主への誓願を守り、ギベオン人との契約を守るべきかの2択です。
3.ヨシュアの決断
ヨシュアは契約を守ることを優先し、ギべオン人を滅ぼさないという決断をしました。そしてギベオン人は偶像崇拝をやめ、神の家のために働くことになりました。この決断は、神の名による契約を破るという更なる罪を犯さないためであり、相手の過ちを利用し、怒りの感情に訴えるようなものではありませんでした。なぜヨシュアはこのような決断を下すことができたのでしょうか。それは、何度も荒野で感情的に契約を破るイスラエルの民に対して、冷静に契約を守り続ける神様の姿を見ていたからではないでしょうか。神様は背信したイスラエルを滅ぼすのではなく、「主に立ち返り、御声に聞き従うなら、繁栄を元通りにし、再び集める」(申命記30:2-4)というご自身の言葉を守っていました。私たちが契約に不忠実でも、神様はいつでも契約に忠実なお方であることが分かります。私たちはヨシュアの決断から、神様の心を理解しようとする忠実な神の僕としての姿を見ることができます。ヨシュアはこの決断を通して、神様の忠実さをギブオン人に示したのです。実際、この判断は神様の御心にかなったようで、ギベオン人はヨシュアの時代だけでなく、500年後のダビデの時代や1000年後のネヘミヤの時代にも重要な役割を果たします。
4.イエスの決断
イエスは最後の晩餐の時、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」と言いました(マルコ14:24)。イエスが血を流すことによって成り立つ新しい契約を神様は約束していました(エレミヤ31:31-33)。イエスは十字架にかかって死ぬという神の計画のためにこの世に生まれたのです。しかし一方で、イエスは「父よ、あなたにはできないことはありません。どうか、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心のままになさってください」と祈りました(マルコ14:36)。イエスは十字架にかかることをためらっていたのです。しかしイエスは自分の感情に従って生きるか、神様の計画に従って死ぬかの究極の選択の中祈りました。そして、神様の御心を優先し、十字架にかかる決断をしたのです。神様がご自分の建てた計画に忠実だったように、イエスも忠実に従ったのです。その忠実さによって私たちは救われました。だからこそ、イエスの見せる忠実な姿は私たち神の民が持つべき姿なのです。
5.まとめ
私たちも人生の中で究極の選択に迫られます。その時、どのような決断をすべきでしょうか。人の目を恐れ、自分の身を守るための決断でしょうか。我慢せず、自分の感情に従う決断でしょうか。いいえ、私たちもヨシュアやイエスがしたように、神様の栄光を表すための決断をするべきではないでしょうか。私たちは良い結果を残そうと必死に考えますが、神様を優先しない決断は、良い結果をもたらしません。なぜなら結果は神様がもたらすものだからです。ヨシュアの決断が良い結果をもたらしたのは、彼の知恵によるものではなく、神様の栄光を一番に考えたからです。神様によれば、私たちの失敗による結果も、素晴らしいものに変えられることができます。例えば、ある日、信仰によって育てた娘が妊娠し、不信者の男性を連れてきて、結婚をすると言った時、私たちは親としてどのような決断をすればいいでしょうか?その結婚は間違っていると叱りつけ離婚させ、中絶させるべきでしょうか?または妊娠と結婚を認め祝福すべきでしょうか?どのように対応するにしても、私たちは娘の過ちに付け込んで、自分の感情に任せた怒りを爆発させるべきではありません。将来生まれてくる子どもと夫婦が神様の栄光となるような決断をすべきではないでしょうか。「自分の命を救おうとするものはそれを失い、私のために自分の命を失うものはそれを見出す」(マタイ16:25)のです。私たちは、自分にとって一番良いこと選び決断するではなく、ヨシュアがしたように、神様の栄光を一番に考えて決断するようにしましょう。(20220410 日曜午後礼拝)
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