20220501 日曜午後礼拝
聖書:ヨシュア11:6
題目:私たちの求めるもの
説教者:高曜翰 伝道師
1.私たちが見ているもの
プレゼントをもらうと嬉しくなります。しかし、私たちはその時に何を見ていますか?贈り物をくれる神様ですか?神様のくれる贈り物ですか?前者は神様との関係を目的として生きる人です。彼らは神の民として生きるために信仰します。一方で後者はこの世の祝福を目的として生きる人です。彼らはこの世で豊かに暮らすことや、死んで天国に行くために信仰します。残念ながら、彼らに用意された祝福や神の国は存在しません。なぜなら、彼らは神様と共にいることよりも、神様の与える祝福にしか関心がないからです。そのような人は神の国で永遠に神様と共に過ごすことに耐えられないでしょう。今日の物語では、私たちが神様に求めるべきものが何なのかをお話ししたいと思います。
2.イスラエルvsカナン北部連合
カナン南部連合を破ったイスラエルに対抗して、ガリラヤ湖の北西にあるハゾルの王ヤビンは北部の国々を招集しました。その結果、歩兵が浜辺の砂のように多くなり、戦力の要となる馬と戦車も非常に多く集まりました。彼らはその軍の大きさに安心し、メロムの水のほとりに陣を敷きました。
一方で、イスラエルの王である神様は、圧倒的な戦力差を見て、2つの言葉をヨシュアに言いました。一つ目は「恐れてはならない。皆イスラエルに渡すから」です。この言葉通りに、神様はカナン人たちが自ら危険な水辺に陣を敷くように誘導したのです。そして、イスラエルが相手の動きを待たず、信仰をもって迅速に奇襲をかけた結果、水辺で馬と戦車とがうまく機能せずに、カナン北部連合は敗北することになりました。
そして二つ目は「馬の脚の筋を切り、戦車を火で焼け」です。神様はイスラエルが馬と戦車を奪って使用することを許しませんでした。馬と戦車は非常に大きな戦力になるのにもかかわらずです。なぜ神様はイスラエルに馬と戦車を捨てさせたのでしょうか?ここにクリスチャンの持つべき大切な姿勢が見られます。
3.神様の非効率な命令
それでは、馬と戦車を再利用させない意味を考えるために、別の例を見てみましょう。レビ記19:19を見ると理解しにくい3つの命令が書いてあります。一つ目は「家畜を混ぜるな」です。例えば、雄ロバを雌馬と掛け合わせることで、病気に強く従順というロバの特徴と、体が大きく学習能力が高い馬の特徴とを兼ね備えるラバという動物ができます。掛け合わせはとても良いものを生み出す可能性のある方法であるのにもかかわらず、神様は禁止しました。
二つ目は「二種類の種を同じ畑にまくな」です。例えば、稲を豆と同時に育てることで、豆の根にある根粒菌が空気中の窒素を吸収し、窒素の少ない土でも稲が育つようになります。とても良い結果を残す可能性のある方法であるのにもかかわらず、神様は禁止しました。
三つめは「二種類の糸で服を作るな」です。例えば、綿と麻をかけ合わせることで、手触りが良く保温性の高い綿の特徴と、通気性の高い麻の特徴を兼ね合わせた綿麻できます。機能性の良い服を作る良い方法であるのにも関わらず、神様は禁止しました。
組み合わせは、とても良いものを生み出す可能性を秘めたものであるのにもかかわらず、なぜ神様は禁止にしたのでしょうか?これは神様が無知だからではありません。それは、当時異邦人の間で流行っていた方法を拒絶することで、イスラエル自身が聖別された神の民であることを知るためです。神の民は、人の力や知恵で生きる存在ではなく、神の力で生きる存在です。
それでは、現代教会において考えてみましょう。神様を信じたからと言って、賢くなったり、金持ちになったり、カリスマ性が出たりするわけではありません。神様がたくさん信徒に祝福を与えて豊かにさせれば、たくさんの信者が増えると考えられるのに、なぜ神様はそうして下さらないのでしょうか。その理由は、弱い者を通して神の栄光を表すためです。この世の祝福によって人を集めたとしても、それは神様を自分の人生のために利用する高慢な人間しか集まらないでしょう。神様は私たちが神様にだけ頼ることを望んでいます。
ここまで考えると、馬と戦車を捨てさせた神様の考えが理解できると思います。馬や戦車は軍事力の象徴であり、この世の力と富の象徴です。ダビデは100頭だけ残しました。ソロモンは残すどころか、エジプトから大量に輸入しました。これは神様よりも目に見えるこの世の力を頼ることを意味します。だから、神様はイスラエルが馬や戦車を再利用することを禁止しました。戦いの勝利が人ではなく神の力によるものであることを知るためです。
4.真の神かこの世の神か
イエス様は、「人は神と富(お金)の両方に仕えることはできない」と言いました(マタイ6:24)。これは、お金を求め生きようとするな、ということです。お金やお金持ちが悪いという意味ではありません。特にクリスチャンならば、この世のものではなく、神様を求めなさいということです。残念ながら、クリスチャンの中でも信仰によって、一流大学や大企業に入ることを求め、高い技術力や能力を手に入れようとする人々がいます。しかし、それは神様に使えるふりをして実際は富に仕える間違った考え方です。結果的に、神様が後から与えてくださることはありますが、最初からそれらを求めることは、神様を利用しているのと同じです。私たちは子供たちを教育する際、どのように教えていますか?この世の富を得るために「学校の勉強しなさい」という言葉と、聖霊に満たされるために「神の言葉を読みなさい」という言葉と、どちらを子供たちにより多く語り掛けていますか?
5.自信ではなく確信へ
わたしはいつも自信がありませんでした。何をしてもうまくいかず、価値のない人間だと考えていました。だから神様にいつも申し訳なく思い、神様に嫌われているとさえ感じていました。学校でいい成績を取った時と、仕事で良い成績を上げた時だけが、自分に存在価値を見出していました。神様の御言葉に忠実に生きているのに、なぜ神様は自信が持てるようなを祝福を与えて下さらず、またこの世で価値のない私を早く天国に連れて行かないのか疑問に思っていました。牧師になることを決意した時も、神様からの祝福がもらえることを期待していました。しかし、4年間のアメリカ生活で気付いたことがあります。私に必要だったのは自信ではなく神様が私と共におられる確信だったということです。私は信仰者でありながら、探し求めていたものはこの世の物であり、自分のためでした。しかし、聖霊を求め、神様のために生きることを決意してからは、自分の存在に意味を見出し、心の中の劣等感は大きく消え去りました。私と同じように自信がないと感じる人は、神の民としての確信を持つために、自分の求めているものを振り返ってみてはいかがでしょうか?
6.まとめ
私たちが見ているもの、求めているものは何でしょうか?神の国と神の栄光ですか?それとも、この世の富や自分の栄光ですか?ダビデは「ある者は戦車や馬を誇る、しかし私たちは主のみ名を誇ろう」と告白しました(詩編20:7)。ダビデもヨシュアも、この世の富ではなく、神の言葉を求め、従いました。私たちも、神の国に入る神の民として、神様の御言葉と聖霊を求めましょう。
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