20220515 日曜午後礼拝
聖書:ヨシュア14:6−13
題目:カレブの持つ姿勢
説教者:高曜翰 伝道師
1。クリスチャンの使命
「天国行きのチケットを手に入れたから、後の人生は自由に生きよう。」「神様の助けで良いことばかり起こるだろう。」「礼拝と善行だけして、平穏な人生を送りたい。」このように考える人がたまにいます。しかし実際のクリスチャン生活はそうではありません。礼拝を邪魔する勢力との戦争が始まります。それは神の国を作っていくための使命を持つようになるからです。イスラエル人は約束を信じてヨルダン川を越えました。そしてエリコ、アイ、ギブオン、南の地方、北の地方を順番に征服しました。12章を見れば、31人のカナン人の王たちを征服したことが分かります。しかしこれで終わりません。 これからカナンの土地を占領するための戦いが始まるのです。クリスチャンも同じです。救いの約束を信じて洗礼を受けます。これは自分の人生を殺してキリストの人生を生きる信仰告白です。そして自分を王とする間違った生き方を征服します。しかしこれで終わりません。これから神の言葉を伝えるため、つまり御言葉で占領するための戦いが始まります。このことから、クリスチャンの人生とは使命を持った戦いの連続であることが分かります。
2。戦いの中の経験
神の言葉を伝える使命に生きると、戦いを避けることはできません。それは悪魔が必死で邪魔をしてくるからです。しかし、その戦いは神様をさらに知り、祝福をより味わうことのできる貴重な経験となります。ヨシュア14:9に「お前の足で踏んだ地は、必ず長くお前と子孫との嗣業となるであろう」という神様の言葉があります。かつてアブラハムにも同じように約束しています。「足で踏む」ことを条件としていますが、これは、神様は見えない所で全ての準備を済ませるような方ではないことを意味しています。つまり、経験を通して、神様のことをよく知り、十分に祝福の素晴らしさを理解させるためです。子育ての大変さと嬉しさは、実際に育ててみないとわからないように、神様がどんな方でありその祝福がどんなに素晴らしいものかは経験してみないとわかりません。イスラエル人は神様の約束を信じて戦いました。ラッパの音で崩れる城壁、空から降って来る大きな雹、沈まない太陽、歩兵だけで鉄の戦車に勝つ戦いを経験しました。その経験を通して神様を知り、祝福の素晴らしさを知ったのです。クリスチャンも同じです。救いの約束を受けてこの世で生きています。迫害や誘惑の中でも、礼拝や奉仕、伝道活動、十分の一献金を捧げるといった種の霊的戦いを経験をすることで、神様を知り、その祝福の素晴らしさを正しく理解できるのです。私たちは金の価値が分からない赤ん坊のようなものでしたが、霊的戦いを経ることで、神様を理解し、その祝福のありがたみが分かるのです。
3。神の国を回復する使命
神の民の使命は、神の国を回復する神様のプロジェクトに参加することです。イスラエル人の場合は、7部族の住人たちを全て殺すことでした。なぜなら彼らの罪は、自分たちの繁栄のために子供を殺すくらいに満ちており、救いようがない状態だったからです。ここで気を付けなければいけないことは、誰が救われ誰が救われないかを判断してはいけない、ということです。ファラオのように救いようのない人は確かに存在します。「神様がその心を固くした」という言葉がありますが、これは神様が無理矢理悪事をさせているという意味ではありません。彼らの悪事を神様が止めずに放っておかれるという意味です。イスラエルの場合には、ラハブの家族とギブオンの人々を除いて、神様の目線から見たら、救いがなかったということです。だから神様はイスラエルを彼らを裁く道具として用いたのです。私たちの場合は、滅ぼすのではなく、全ての人々に福音を述べ伝え、弟子を作ることを命じています。しかし、そこにはどうしても悪魔の妨害があり、衝突が起こるのです。私たちはただ、結果は神様に任せて全力で従うだけです。
4。カレブの姿勢
それでは使命に生きるクリスチャンとはどのような生き方をするものなのでしょうか。今回はカレブから学ぶ事にしましょう。彼はユダ族出身で、荒野からの生き残りはヨシュアと彼だけです。85歳になりましたが、彼はヘブロンの占領を申し出ました。ヘブロンはかつてアブラハムが住み、主が現れた場所ですが、現在は城塞都市を持つアナク人の勢力下の中心です。アナク人とはネフィリムのような巨人であり、かつてイスラエルが挫折した原因です。しかし彼は一番大変そうな場所を自ら選んだのでした。それは、カレブが、自分の健康を自分の成果とは考えず、この戦いのために主が残してくださったものと考えたからです。カレブが過去の成果を誇らず、目的意識を持って未来に生きる人であることが分かります。カレブは目に見えるものを恐れず、神の兵士として戦い続けました。その結果、他の部族とは対照的に敵を完全に追い払うことができたのです。カレブにとって問題の大きさは重要ではありませんでした。なぜなら、自分の能力で戦うのではなく、神様の能力で戦うからです。そして戦争はやんだとあります。後に子孫のダビデがヘブロンで王となることを考えると感慨深いものがありますが、一番大事なポイントは、自分がここまで生き残って来れたのは、自分が正しかったからではなく、神の使命があるからだと考えたところです。私たちクリスチャンが今生きているのも、正しく生きてきたからではなく、重要な使命があるからなのです。
5。その他の部族の姿勢
それでは他のイスラエル人はどうだったでしょうか。ユダ族はエルサレムの占領にあたりましたが、2つの谷に挟まれた攻略の難しい天然の要塞だったためか、エブス人を完全に追い払うことができず、和平を結んでしまいました。これは、神の命令よりも自分たちの平安を選んだ、怠慢の結果であると言えます。また、ヨセフ族はどうだったでしょうか。彼らは攻略の難しい北の地の占領に当たりましたが、それを担当する責任がありました。それはヨセフ族が長子ルベンの失敗により、2倍の祝福を受け、他部族よりも人数が多く豊かだったからです。祝福の大きさには責任が伴います。カナン人が大国エジプトに負けないほどの鉄の戦車を持っていたためか、彼らを追い払わずに奴隷としました。鉄の戦車の戦力に目がくらんだのかもしれません。これは、神の約束の成就よりも、人や技術のへ恐れが心を支配していた結果であると言えます。ルベン族とガド族も、ヨルダン川の東で戦いはしましたが、占領することができませんでした。神様の命令に最後まで従えなかったのです。動こうともしない不誠実なシメオン、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、アシェル、ベニヤミンの7部族についてはここでは省略します。彼らの態度は、神様の祝福には興味があっても、神様自身には興味のないクリスチャンの態度そのものです。
6。クリスチャンのあるべき姿勢
ユダ、ヨセフ、ルベン、ガドの失敗は人の力を恐れたところにあります。人を恐れる人は、人の力で勝利しようとする傾向にあります。神様に主権を返しきっておらず、人間の力で生きようとするクリスチャンの姿勢が見えます。一方でカレブの勝利は、神様だけを恐れたところにあります。神様だけを恐れる人は、神様の力で勝利します。神様に人生の主権を返し、神様の力で生きるクリスチャンの姿勢が見えます。彼の神様だけを恐れた姿は、「従い通した」という言葉に現れています。どんなに強い敵が立ちはだかっても彼は「従い通した」のです。自分の思い通りにいかないと失望するクリスチャンではなく、「従い通す」ことが勝利の鍵となります。環境の悪さが問題ではなく、環境に対する私たちの姿勢が問題なのです。自分が生きている理由を理解する姿勢が求められるのです。パウロはピリピ2:6−8で、「キリストは、神の形であられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕の形を取り、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」と述べています。イエスはカレブのように神の計画に従って人生を歩みました。自分の使命を理解し、バプテスマを受け、荒野の試練を越えて、伝道し、自ら捕まり十字架にかかりました。奇跡や不思議な力で勝利しようとはせず、神様に主権を返し、神様の計画通りに死ぬまで「従い通し」ました。その結果、死に勝利したのです。93歳になる東浦栄一さんも水曜日礼拝の再開を聞いたすぐ後の水曜日に、バス、地下鉄、タクシーに乗ってやってきました。ご高齢になっても礼拝を自分の使命として考え、教会に自らの力で来られる姿に感服いたします。
7。結論
救いとは自分の信仰の高さからくる結果ではありません。祝福とは自分が豊かに楽しく生きるためではありません。先に救われたのは、まだ救われていない人のためです。祝福を受けたのは、神の国のために間違った世界観や価値観と戦うためです。クリスチャン生活とは、終わりではなく始まりであり、今現在生きている理由なのです。カレブのように生きている理由をはっきりさせてください。そして、神の国の回復のため、戦いは避けられません。戦わないクリスチャンは、この世と妥協し、霊的な戦いに敗北してしまいます。クリスチャンにとって戦いは日常なのです。カレブのように戦い続けてください。また、クリスチャンの武器は自分の能力ではなく、信仰であることを忘れないでください。自分の能力で戦おうとするから、恐れたり、先延ばししようとするのです。使命に生きる人は使命が終わるまで死にません。カレブのように「従い続け」て下さい。クリスチャンとして生きることは、霊的戦いの中で生きることであり、主の力で勝利するということを、忘れないでください。
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