20220717 日曜午後礼拝
聖書:列王記上18:20-21
題目:全てにおいて主を認めよ
説教者:高曜翰 講道師
1.重要指名手配犯エリヤ
イスラエルに雨が降らなくなってから、預言者エリヤは全国の指名手配犯になっていました。イスラエル王国は、アハブ王とイゼベルとの政略結婚を機に、太陽であり嵐の神であるバアルの信仰を取り入れました。その結果、イスラエルは経済的・軍事的に安定した国家となり、国際的地位を確立しました。そこにはバアルによりもたらされた「生命の保障」がありました。エリアの罪はその「生命の保障」を奪ったことにあります。3年間の飢饉は食糧不足、経済崩壊、治安の悪化をもたらします。イスラエルは国内だけでなく、国際的にも信用を失ったことでしょう。エリヤはイスラエル全体から命を狙われます。しかし、神の言葉に従うエリヤは、神に守られ養われ、子供を生き返らせるなど神の奇跡を体験します。一方で、神の言葉に従わないアハブは、バアルの無力さを悟るどころか、エリヤひとりに原因を求めていました。そして王として民を心配すべきなのに、未だに馬の心配をしていました。これはアハブがイスラエルの国を憂うような王ではなく、自分の地位に固執する王であることを意味しています。
2.アハブとエリヤの再会
探しても見つからなかったエリヤですが、オバデヤという人物の前に現れます。オバデヤはアハブに仕えながらも、100人の預言者をかくまったちするような神を恐れる人でした。エリヤはこの事実を忘れてしまいますが、神様は私たちを一人で戦わせるような方ではありません。オバデヤを通してエリヤとアハブは再会することになります。アハブは「イスラエルを悩ます者よ」(18:17)と言います。バアルのせいで国が豊かになったのに、エリヤのせいで国が貧しくなったと思い込んでいます。3年間の間、アハブは原因が自分にあると悟ることができませんでした。一方でエリヤは「あなたとあなたの父の家が悩ましたのです」(18:18)と返します。バアルのおかげで国が豊かになったと考えるアハブに対して、バアルのせいで国が貧しくなったと説明しています。それを証明するためにカルメル山で本当の神がどちらであるかを決める勝負を申し出ました。カルメル山は、かつては主なる神を礼拝していた場所でしたが、今は祭壇が壊れており、バアル崇拝の本拠地に変わっていました。アハブはバアルに有利な条件であると考え、エリヤの申し出を受け入れました。
3.勝負の条件
エリヤと、アハブによって呼ばれたイスラエル人たちとバアルの預言者450人がカルメル山に集まりました。エリヤは「いつまで二つのものの間に迷っているのですか?」(18:21)と人々に問いました。これはアハブを含め、イスラエルの人々が完全に神を捨てたわけではなく、イスラエルの神を部分的に認めていることを意味します。どういうことかというと、「生命の保障」のために神にもバアルにも仕えていたのです。だからエリヤはどちらかだけに従うように要求しました。しかし、「民はひと言も彼に答えなかった」(18:21)とあります。これは両方を受け入れたいという思いがあるからです。しかし、生贄に火をつけた方が本当の神であるという、バアルに有利な勝負方法を聞いて「それがよかろう」(18:24)と民は答えました。人々の心には、経済を破綻させた神ではなく、経済を豊かにしたバアルに仕えたい気持ちが残っていたようです。
4.勝負の結果
バアルの預言者450人が朝から3時ごろまで約6時間叫びましたが、乾いた生贄に火はつきませんでした。一方でエリヤは大量の水(少なくとも15ℓ以上)で、生贄と祭壇を十分に濡らしたうえで30秒ほど祈りました。すると、空から火が降ってきて、濡れた生贄も、木も、石も、祭壇回りの溝にある水も全て焼き尽くしました。火が付くはずのない状態の生贄が燃え尽きたという、あり得ない状況を見た民はひれ伏し、イスラエルの神だけが自分たちの神であることを認めました。そしてエリヤは、450人のバアルの預言者たちをキション川に連れて行き、モーセの律法に従って処刑しました。その後、雨が降ったのです。人々はこの勝負によって、火も水もバアルではなく、イスラエルの神に属していることを理解しました。人間の目には不可能な状況でも、神にとって不可能な状況などはありません。
5.神の王国の民として
イエスは「だれも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)と言いました。ある人々は、死んだ後のための魂の救いは神様、生きている間のための肉体の救いはお金だと考える傾向にあります。確かに私たちは死んだ後、神の王国に入りますが、誰でも入れるわけではありません。神様を自分たちの王として、主人として愛し、王国の法律に従う王国民だけが神の王国に入ることができるのです。エジプトから導き出されたイスラエルの民が荒野で神の民となる訓練を受けてから約束の地に入ったように、この世において神の民として準備できた人だけが、神の王国に入ることができるのです。生活全てにおいて主なる神だけを認めなければならないのです。神に対する信仰と政治や経済を分けて考える人々がいますが、それは間違いです。家では妻を精一杯愛している夫でも、外で愛人を作っているなら、夫としての資格を失います。同じように私たちも大部分において神を認めても、ある一部分において神を認めないならば、それは神の民としての資格を失います。私たちはひとりだけを選ばなければなりません。
6.まとめ
イスラエルの民は「生命の保障」のために、バアルにも主なる神にも仕えました。現代においても、この世の神である「富」と主なる神の両方に仕える人々がいます。主だけでは不安なのです。しかし、ひとりの夫がどんな時でもひとりの妻を愛するように、神は、神だけを愛して仕えることを望んでいます。私たちの貧しさや困難は一見、私たちに足りないものがあるからと考えます。神の民として生きること以外に必要なものがあるのではないかと考えます。しかしそれは逆です。私たちクリスチャンの苦しみは、私たちの不必要な欲望から来ており、足りないからではありません。二つの間で揺れ動いているから神の民でありながら苦しんでいるのです。心配しないでください。私たちの神は「死後の救い」だけでなく「生命の保障」をも与えて下さる神です。3年間生き延び、450人に勝利したエリヤがそれを証明しています。どんな時でもどんな場所でも、主なる神様だけを愛し、主なる神様だけに仕えましょう。
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