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私たちの望むべきものは(列王記上20:13)
고영수 2022-08-06 추천 0 댓글 0 조회 557

20220803 日曜午後礼拝

聖書:列王記上20:13  

題目:私たちの望むべきものは

説教者:高曜翰 講道師

 

1.エリヤの絶望

 前回お話しした通り、エリヤはカルメル山での戦いの後、絶望し、国外のホレブの山まで逃げました。自分の命がけの努力に、目に見える成果が表れなかったからです。エリヤが生命の危機の中にいる時、神様は、岩を砕くような風や地震、火のような見た目の華やかさのな中に主の思いがあるのではなく、静寂の中にこそ大事な主の思いがあることを見せ、エリヤの間違った考えを正しました。そして、ハザエルとエヒウ、エリシャに油を注ぐという新たな使命を与えることでエリヤの失望感を癒し、7000人の仲間がいることを知らせることでエリヤの孤独感を癒しました。そうして、死にたいと思っていたエリヤは考えを改め、国内に戻り、エリシャに油を注いで後継者としました。

 

2.アハブの絶望

 今回のお話は、アハブについてです。カルメル山での戦いの後でも、アハブは主に立ち返ることをしませんでした。そんなアハブに生命の危機が迫ります。ダマスコの王ベネハダデがイスラエルの首都サマリヤを包囲したのです。ベネハダデは「金銀、最も美しい妻子をよこせ」(20:3)と要求します。しかし、その要求が通ると、「金銀と、最も美しい妻子だけでなく、全ての妻子をよこせ」(20:5)と要求を大きくします。アハブはその要求を拒否し、全面戦争の姿勢を見せます。しかし、実際は、イスラエルはまだ十分に国力が回復しておらず、ダマスコと比べて圧倒的に戦力の足りない状態でした。勝ち目はまずありません。しかし、神様はアハブを助けるために一人の預言者を送ります。アハブはその言葉に聞き従った結果、7000人の民兵が集まり、ベネハダデを追い返しました。翌年、再度ベネハダデは約13万の歩兵を引き連れてやってきましたが、それも打ち負かすことができました。常識では決してありえない結果をアハブは見ることになりました。

 

3.アハブの失敗

 エリヤとアハブは別々の場所で生命の危機に陥りますが、神様によって助けられます。このことから、慈悲深い神様は自分に忠実な者にも反逆する者にもご自分を表されることが分かります。最初はバアルに力があると思い込んでいたアハブですが、カルメル山の事件を通して神様の力と思いとを見ました。しかしアハブは、主なる神様ではなくエリヤに力があると勘違いしたようです。そのため、結局は主なる神様の思いを理解できず、神様に立ち返ることをしませんでした。そこで神様は別の預言者を通して再び神様の力と思いとを知る機会をアハブに与えられました。それが今回のベネハダデの事件です。しかし今回もアハブは神様の思いを理解することはできませんでした。奇跡的な勝利に酔いしれたのでしょうか、アハブは神様に聞くことをせず、命乞いをするベネハダデと勝手に契約を結んで帰らせました。そこでその預言者は負傷兵のふりをして、ある質問をアハブに尋ねます。捕虜を逃がしてしまった兵士は死ぬべきか、という内容です。アハブはその通りだ、と答えます。そこで預言者は自分の正体を現して、主が滅ぼそうと定めた人を逃げ帰らせたので、代わりにアハブが死ぬようになる、と答えます。それを聞いたアハブは悔い改めることをせず、感情的に怒って帰ってしまいました。ここに大きな失敗があります。

 

4.エリヤとアハブの態度の違いから学ぶこと

 エリヤとアハブのお話を通して、主なる神様を信じる人もそうでない人も苦しみに直面すること、そして同じように主によって助けられることを知りました。しかし、エリヤがその命をつなぎ留める一方で、アハブは命を失うことになります。その違いは何でしょうか。それは「何を見ているか」です。エリヤは自分の思い通りの結果を見ることができず絶望しましたが、神様の優しさを経験し、「神様を見る」ようになり、神様の計画に関心を寄せ、参加する決心をしました。自分の思いではなく、神様の与える見えるご褒美ではなく、神様の思いを、神様自身を見るようになったのです。一方でアハブは絶望的状況で、神様の救いを経験しましたが、神様を見ることをせず、あくまで自分が高められることにしか関心がありませんでした。アハブは困難の後も神様の思いではなく、自分の思いしか理解しようとせず、物質的な「祝福を見る」ことにしか関心がありませんでした。その証拠に、次の21章でもアハブはぶどう畑を手に入れるために、無実のナボテに濡れ衣を着せて殺してしまいます。自分の命が危機的状況にあるのに、一つのぶどう畑が一体何の役に立つのでしょうか。自分の思いにしか関心のない人、目に見える物質的な物にしか関心のない人は、自分が死に直面していることも理解することができないのです。

 

5.律法学者やパリサイ人の問題点

 アハブのように神様自身ではなく、神様が与える目に見えるご褒美にしか興味のない人々はイエスの時代にも見られました。イエスは「はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に治めておりながら、律法の中で最も重要な、公平と憐れみと忠実とを見逃している。それもしなければならないが、これも見逃してはならない」(マタイ23:23)と律法学者やパリサイ人を非難しています。これは、十分の一献金や律法を通して神様を知り、神様との正しい関係を持つべきなのに、その方法にこだわってはいるが、その目的を見失っている、という意味です。「神様との正しい関係を作っていく」という本来の目的を「自分が人々から賞賛を受ける」という目的にすり替えてしまっているのです。イエスが彼らを「偽善者」と呼ぶのは、十分の一献金や律法を間違った目的のために使用しているからです。だから律法学者やパリサイ人はイエスを見ても、メシアだと気づくことができませんでした。彼らの、「律法」を通して見ているものが、神様ではなく自分自身だったからです。

 

6.親子関係から見えるもの

 この「すり替え」は現代にも行われています。子供は小さいころ、親を見つければ何も考えずに喜びいっぱいで走ってきます。子供たちはただ、親が大好きなのです。そしてそんな親に自分のことを見てほしくて、親の側にいようとします。それは自分が生きるための生存本能だという人もいますが、私はそうは思いません。なぜなら私の姪っ子は、私が何かを食べさせたり、買ってあげたりしなくても、抱き着いてきてくれるからです。何かのプレゼントをもらう時ではなく、一緒にいることを一番喜んでいるからです。物質的なものではなく、自分たちを見て、聞いて、理解してくれる親子の関係が欲しいのだと感じました。しかし、残念ながら、現実では、多くの人が血縁的な「親子関係」満足して、仕事の忙しさを理由に、精神的な「親子関係」の構築がおろそかになっているのではないでしょうか。私たちは知らず知らずの間に、「関係を築くこと」よりも「物質的な欲求を満たすこと」に、子供の望みを変えさせてしまっているのではないでしょうか。イエスは「幼子らを私のところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である」(マルコ10:14)と言っています。神様も無条件で神様との親子関係を喜ぶような子供の心を持つ私たちを望んでいるのではないでしょうか。つまり私たちは、親の与える物質的なご褒美(お菓子やゲームなど)を望む子供のようにではなく、無条件に一緒にいる関係性を喜ぶ子供のように戻る必要があると考えます。そしてそれは、私たちが困難に陥った時が絶好の機会ではないでしょうか。

 

7.まとめ

 絶望的な状況で、エリヤは自分自身ではなく神様を見つめ、人々から賞賛を受けるような結果ではなく、神様との正しい関係を求めるようになりました。一方でアハブは、絶望的な状況でも、神様ではなく自分自身を見つめ、神様との正しい関係ではなく、人々から賞賛を受けるような結果を求めました。その結果は、命の喪失です。私たちはこの世の間違った価値観の影響を受け、「正しい関係性」よりも「目に見える成果」を望むようになってしまいました。それは親子の関係だけではなく、神様との関係においても見られます。私たちの困難は私たちの間違った価値観を修正し、神様との正しい関係を取り戻す絶好の機会です。神様との正しい関係だけが私たちの命を救います。皆さん、アハブのように「目に見える成果」にこだわるのではなく、エリヤのように「神様との関係」を望む人間に生まれ変わりましょう。​ 

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