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「こどもっぽい」を捨て「こども心を忘れない」ようにしよう(列王記上21:27-29)
고영수 2022-08-13 추천 0 댓글 0 조회 432

20220814 日曜午後礼拝(本文)

 

聖書:列王記上21:27-29

題目:「こどもっぽい」を捨て「こども心を忘れない」ようにしよう

 

内容:善悪の判断基準を神様に置くことのできる「大人らしさ」と、純粋に自分の人生の父親として神様を迎えることのできる「こども心」を持とう

 

賛美:福音賛美370、福音賛美94、賛美歌565

 

1.「こども」のままでいるべきか?

 「こどもっぽい」という言葉は否定的な意味で、未熟な振る舞いをしている人に使われ、英語では「Childish」を使います。一方で「こども心を忘れない」は肯定的な意味で、計算高い人ではなく純粋な人に使われ、英語では「Childlike」を使います。同じような言葉に見えても、意味が全然変わってきますが、このような使い分けは聖書でも見られます。へブル書の著者はへブル5:12-13で「すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。しかし、固い食物は、善悪を見分ける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである」と言っています。これは、こどものように善悪の判断において未熟だと神の義を楽しむことができない、という意味です。一方で、イエスはマルコ10:14-15で、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることはできない」と言っています。これは、計算高い人ではなく、こどものように純粋な人でないと神の国に入ることができない、という意味です。つまり、私たちは計算なしに素直な心で神様を求める一方で、神様に従うために成熟する必要があるのです。

 

2.「こどもっぽい」アハブ

 アハブは「こども心を忘れた」「こどもっぽい」人の代表のような存在です。確かに彼はイスラエルの国を豊かにした王です。アハブによってレバノン杉の供給地やエジプトへの通商路の確保、フェニキアの象牙加工技術の導入を行い、12ヵ国連合軍の主力としてアッシリアを撤退させました。大人としては十分すぎるほどの成果を上げたように見えます。しかし、それは無条件に神との関係を楽しむ「こども心を忘れた」結果に過ぎません。なぜなら彼の偉業はどれも神様との関係を無視して達成したものだからです。そして彼の「こどもっぽい」性格も、神様の代理人として国を支配する器ではないことを、大きく表しています。

 ある日アハブは宮殿の側にあるナボトのぶどう畑を気に入り、お金で買い取ろうとしました。しかし「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできない」(21:4)とナボトに断られました。自分の思い通りにいかなかったショックでアハブは機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰りました(21:4)。王としての権力も、自分の信じていたお金の強さも、神の法の前には役に立たないことを知り、すねてしまったようです。子供は自分の思い通りにいかなかった時、まるで甘やかされて育った駄々っ子のようです。アハブはショックで寝込み、食事もとらなくなりました(21:4)。ここに「こどもっぽい」アハブが色濃く現れています。「こどもっぽい」人は神様の考えを優先することができないのです。

 

3.利用される「こどもっぽさ」

 それを見た妻のイゼベルは、ナボトの住む町の長老と貴族たちに次のような命令を下します。「ナボトは神と王とを呪った」と買収した二人に嘘の証言をさせ、ナボトを合法的に殺してしまえ、というものです。その言葉通り、ナボトは濡れ衣を着せられ、人々に石で撃ち殺されてしまいました。すると、それまで引きこもっていたアハブは、持ち主を失ったぶどう畑を自分のものにしようと外に出て行ったのです。つまり、イゼベルは神の法によって手に入れることのできなかったぶどう畑を、逆に神の法を利用することによって手に入れさせようとしたのです。しかし、それを知った主なる神様は、エリヤを送り、アハブとイゼベルを裁くことにしました。エリヤは「犬の群れがナボテの血をなめた場所で、犬があなた(アハブ)の血をなめるであろう」(21:19)、「犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう」(21:23)、「アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥がくうでしょう」(21:24)とアハブに宣告します。

 神の審判の言葉を聞いたアハブは、衣を裂き、荒布を身に着けて断食を始めました。アハブは事の重大さにようやく気付き、神様の前でへりくだる姿勢を見せたのです。自分の思い通りにいかないときや怒られたときに、感情を爆発させるのは「こどもっぽさ」が原因です。しかし、ようやく自分の中にある「こどもっぽさ」を、一時的にですが、捨てることができた瞬間でした。その結果、神様から「わたしは彼が生きている間は災いを下さない」(21:29)と憐れみを受けることができたのです。世の人々は、大胆な自信家を大人として評価するかもしれませんが、へブル書の著者の言葉から見れば、善悪を正しく判断し、神の前にへりくだることのできる者が立派な大人なのです。

 

4.「こどもっぽさ」を捨てよう

 イエスは迫害を受ける弟子たちに対して「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)と言いました。これは、ある時は自分の知恵によって賢く困難を乗り越え、ある時は素直な心で困難を乗り越えなさい、という意味ではありません。善悪を判断できる大人としての知恵と、純粋に神様との関係性を楽しむための「こども心のある」信仰の両方を持ちなさいという意味です。これは、パウロの「物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」(Ⅰコリント14:20)という言葉と合致しています。イエスは終始、知恵者であるパリサイ人と戦っていました。それは彼らが善悪の判断基準を神様に置くことができず、自分に善悪の判断基準を置く「こどもっぽさ」をいつまでも持っており、逆に、無条件に神様との関係を楽しむ「こども心」を忘れていたからです。

 

5.「こども心」を持ち続けよう

 「こどもっぽさ」が信仰生活を間違った方向にもっていく一方で、「こども心を忘れない」ことは、信仰生活を続けていくうえでとても大切です。6月の韓国訪問中に、私たちの教会を支援してくださっているハンウル教会(한울교회)のキンソング(김성국)牧師先生とお話する機会がありました。なぜ牧師になったかというお話の中で、牧師先生は「礼拝も聖書勉強も奉仕も、教会で持つ関係が楽しいから牧師になった」とおっしゃっていました。これを聞いて、私は牧師として生きていくうえで、絶対に忘れてはいけないことだと強く感じました。そしてこれは牧師や奉仕者だけの問題ではなく、全ての信徒においても同じことが言えるのではないでしょうか。例えば、子供たちが純粋に楽しい気持ちで挨拶しにやって来るのと、義務的に礼節を守るために挨拶しにやってくるのと、どちらが嬉しいでしょうか。当然前者の方です。同じように神様も、私たちが「こども心」をもって近寄って来ることを望んでいます。

 

6.まとめ

 アハブは善悪の判断基準を自分自身に置く「こどもっぽさ」を捨てることができませんでした。そのため、イゼベルにそそのかされ、罪を犯し続けました。そして純粋に神様との関係を楽しむことのできる「こども心」を捨てたため、計算によってイゼベルと結婚し、バアルを神として迎え入れました。その結果は、確かに人々がうらやましがるような成果を生み出しましたが、最終的には一族の滅亡という最後を迎えることになりました。神様は、善悪の判断基準を、自分ではなく神様のものに従うことのできる「大人らしさ」と、純粋に神様を自分の人生の親として迎えることのできる「こども心」を持つことを望んでいます。私たちは、アハブと同じ道を歩まないためにも、「こどもっぽさ」を捨て、「こども心を忘れない」ようにしましょう。​ 

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