20220821 日曜午後礼拝
聖書:列王記上22:7-9
題目:悔い改めの後にすべきこと
内容:神の国の民として神の義を優先させる訓練をしよう
賛美:福音賛美161、福音賛美47、賛美歌469
説教者:高曜翰 講道師
1.アメリカの日本との違い
国が違えば、法律や習慣などのルールも違います。私はアメリカに4年ほどいたので、アメリカの日本との違いを5つほど挙げてみたいと思います。道路ではスクールバスが優先されます。子供たちがバスを乗り降りしているときは、反対車線も含めて全ての車が止まらなければなりません。また、洗濯物は乾燥機で乾かします。外干しは外観を損なうので、だいたい禁止されています。また、レストランではチップを必ず支払わなければなりません。対応が悪かったから支払わなくていいというものではなく、チップがなければその従業員は生活ができなくなります。また、13歳未満の子どもを放置すると、その親は法的に処罰を受けます。子供だけに留守番させるということは不可能で、子どもが親の視界から外れただけでも見知らぬ人から注意を受けることがあります。また、留学生のアルバイトは禁止されています。これを破ると国外退去になり、2度とアメリカに入れなくなる場合があります。たとえ理解できないルールだとしても、その国に住むためにはその国のルールに従う必要があります。他国のルールや自分だけのマイルールは通用しません。
2.再び悪の道に走るアハブ
さて、主の前にたくさんの悪を行ってきたアハブ王ですが、ナボテのぶどう畑の事件でエリヤに諫められ、ついに主の前にへりくだることができました。自分の判断がいつも正しいと思う子供っぽさをを捨て、主の判断基準に従う大人になった瞬間でした。その結果、神様はアハブの時代には災いを下さないと約束してくださいました(21:29)。しかし残念ながら、3年後、アハブは自ら災いを引き起こすことになります。悔い改めたにも関わらず、アハブは再び肉の欲に走りました。それが、ラモテ・ギレアデをかけたダマスコとの戦争という形で現れました。その結果、アハブはその戦いで命を落とすことになります。3年の間にアハブに何があったのでしょうか。アハブの失敗は決して過去の遠い国の人々の問題ではありません。実際私たちも、アハブのように悔い改めても罪を犯し、再び神様から離れてしまうことがあります。一体なぜなのでしょうか。共にアハブの失敗から学んでみましょう。
3.(スリヤ)ダマスコとの戦争準備
ナボテのぶどう畑事件から3年後、ユダの王ヨシャパテが訪問してきたことを契機に、アハブはスリヤ(ダマスコ)への攻撃を行うことにしました。ユダ王国の力を借りてラモテ・ギレアデの地を奪還するためです。一見して、正当性のある戦争に見えますが、アハブのこの世の富への欲があります。この世の富への執着というものは恐ろしいもので、悔い改めた後も、簡単に消えるものではないようです。アハブは、信仰の熱いヨシャパテ王の前ということもあり、お抱えの預言者400人を集め、形式的に神様にこの戦争の良し悪しについて尋ねました。彼らはバアルではなく主なる神の預言者でしたが、アハブを喜ばせるために存在する偽りの預言者たちでした。主の言葉に親しんでいるヨシャパテ王はその預言者たちに違和感を感じ、他の預言者も呼ぶようアハブに言いました。
4.異なる預言
アハブはしぶしぶミカヤという預言者を呼びました。ミカヤはアハブについて何度も悪い預言ばかりをするので、呼びたくなかったのです。最初、ミカヤは皮肉っぽく戦争に同意します(22:15)。しかし、アハブ王はそれに気付き、真実を言うようにミカヤに言います。するとミカヤは、天における主なる神の会議の様子を説明し始めます。それは、戦争に出ればアハブは必ず死ぬということと、悪霊がアハブが戦場に出るよう偽りの預言者たちに言わせるというものであり、主なる神がそれを許可したというものでした。悪霊たちですら神様の許可なしには何もできないということが分かります。
すると、偽預言者の一人であるゼデキヤが出てきて、ミカヤの頬を叩き非難しました。最終的にアハブは、自分に都合の良い事を言う偽預言者たちの言葉を信じて、ミカヤを牢獄に入れてしまいました。神様がミカヤを通してアハブに再び悔い改める機会を与えましたが、アハブは聞く耳を持たず、戦争を起こしました。神の言葉を無視し、神の憐みに気づくことができませんでした。悔い改めた時とは違い、アハブはすでに神様の声が届かない場所に戻ってしまったのです。
5.人間的な知恵
一方で、ミカヤの預言を完全に無視することができず、アハブは自分の身の安全のため、ヨシャパテに王の服を着せたまま戦わせるようにしました。スリヤの攻撃をヨシャパテに集中させ、自分は身を隠すためです。なんと卑怯な方法でしょうか。しかし、どういうわけかヨシャパテは戦争への参加にも、アハブの姑息な提案にも賛同してしまいます。残念ながら、いかに霊的に優れた人であっても、人間の知恵に惑わされることがあります。私たちは悪に近づくことに慎重にならなければなりません。アハブは人間の知恵で神の預言を逃れようとしました。
6.戦争の結果
しかし、アハブに憎しみを持っていたベネハダテの作戦によって、その浅はかな計略は見破られます。そして名もなき兵士の引いた弓矢によってアハブは命を落としました。人がどんなに知恵を働かせて命を長らえようとしても、神様の許しがなければ不可能であることを忘れてはいけません。アハブは自分の技を優先させた結果、自ら災いを引き起こし、倒れたのです。そして神様の予言通りの結果になりました。
7.アハブの問題点
悔い改めたはずのアハブがなぜ再び罪の道に戻って行ったのでしょうか。確かにアハブは神様にへり下りました。しかし、アハブは悔いた(Regret)だけで、悔い改めた(Repent)わけではなかったということが分かります。悔い改めとは神の義を優先させることです。へブル書の著者は「自ら清くなるように努めなさい。清くならなければ、誰も主を見ることはできない」(へブル12:14)と言っています。そして清くなるのは神の義によってのみです。人の義では神の前に清くなることはできません。つまり、アハブは3年の間、神の義によって清くなる努力を怠っていたと考えられます。もしアハブが、真に悔い改め、神の義に親しむ努力をしていたなら、ヨシャパテ王を騙して戦争を起こしたり、ミカヤ預言者を投獄するようなことはなかったでしょう。アハブの問題は、悔い改めた後、神の義によって清くなる努力をしなかったことにあります。
8.しつこい悪習慣とその影響
後から振り返れば、本当に悔い改めて救われたのかどうか判断できる場合がありますが、信仰生活真っ只中の私たちにとっては、他人どころか自分さえも本当に悔い改めできているか分からない場合があります。なぜなら悔い改めたとたんに全てが変わる訳ではないからです。それは悪い習慣やその影響はすぐには無くならないからです。確かに私たちは悔い改めることで、罪の奴隷から神の奴隷に生まれ変わりました。今私たちのいる場所は昔いた場所と全然違います。しかし、体に染み付いた罪の習慣と影響は残っているのです。だから私たちは慣れない神の義に不便を感じ、慣れ親しんだ罪の習慣に知らず知らずのうちに戻ろうとしてしまいます。それはまるで遊んでばかりいた子どもたちが始めた勉強生活、ヘビースモーカーたちが始めた禁煙生活に似ています。勉強が必要なこと、タバコが悪いことがわかっていても、勉強せず、タバコを吸ってしまうのです。怠けていた学生が心を入れ替えて勉強を始めたからと言って、それまで怠けて覚えていなかった知識が突然頭の中に入ってくるわけではないように、また喫煙者がタバコをやめたからと言って、その日から肺がすぐに回復したり、たばこを吸いたいという気持ちがなくなるわけでははなく、健康的な生活を送る努力をしなければなリません。同じように、悔い改めて罪が許されたからと言って、それまでの悪い習慣や影響が突然なくなるわけではありません。だから私たちは神の国の民としてふさわしく清められるよう、古いルールを捨てて、新しいルールに慣れる訓練が必要なのです。
9.神の義を求める訓練
それでは新しい習慣に慣れるにはどうすれば良いでしょうか。イエスは「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)と言いました。第一に神の義なのです。自分の義ではありません。また、第一に神の喜ばれることなのです。自分が喜ぶことではありません。そして第一に神の栄光のためなのです。自分の栄光のためではありません。まず神様にとってどうなのかが大切なのです。自分にとってではありません。つまり、自分ではなく、神様にとってどうなのかを考える習慣をつけることが大事なのです。アハブの問題は自分の義を第一にしたことです。第一に自分の喜ぶことであり、第一に自分の栄光のために行動したことが問題なのです。パウロは救いにあずかれなかったユダヤ人たちに対して、「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ10:3)と言いました。つまり、まず自分の義を考えるような人には神の国はふさわしくないと言うことです。私たちは自分の義を1番に考えることをやめなければなりません。
10.悔い改めた者がすること
悔い改めたからといって、罪の習慣やその影響はすぐには無くなりません。知らず知らずのうちに自分の義を1番に考えてしまいます。しかしそれでは、悔い改める前と何も変わらず、神の国にふさわしくないままです。エジプトの支配から救い出されたイスラエルの民が、荒野でエジプトでの習慣や考え方を捨て、神の国の習慣や考え方を持つ訓練を受けたように、私たちも自分の義ではなく、神の義を1番にする訓練をしなければなりません。ただ救われたと思い込むだけで天国に行けるわけではないのです。神の国の民として神の義を優先する訓練が必要なのです。これは日本からアメリカに移住した人々にも同じことが言えます。いつまでも日本の習慣や考え方のままではアメリカに住むことは苦痛になります。アメリカで心地よく住むためには、アメリカ人の習慣や考え方を当たり前だと認める訓練が必要なのです。同じように、神の国の民として、私たちも神様を第一に考える訓練が必要なのです。
11.まとめ
私たちが悔い改めた時、私たちは神の国の民に生まれ変わります。これまでは自分が人生の主人であり、自分に主権がありましたが、これからは神様が人生の主人であり、神様に主権が移ります。そして、神の国の民とは神の義に従う人々のことです。これまでは善悪の判断基準を自分で決めていましたが、これが神様の判断基準に変わるのです。しかし残念ながら、日本人がアメリカに住み始めてもすぐにアメリカの法や文化に馴染めないように、悔い改めたからと言って神の国の民として生きることが容易になるわけではありません。神の国の法に馴染むには訓練が必要なのです。それは自分の義ではなく、神の義を1番に考えることです。愛する皆さん、いつでも神の国で暮らせるように、神の義を第一にする訓練を日々してください。イエス様は「神の国は、実にあなた方のただ中にあるのだ」(ルカ17:21)と言いました。神の国はすでに来ています。自分にとって正しいことではなく、神様にとって正しいことを考える訓練をしましょう。
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